
崩れ落ちる廊下に満ちる蝉時雨と白いシャツ
崩れ落ちる廊下に満ちる蝉時雨と白いシャツ
割れた窓から差し込む夕方の光が、舞い上がる埃を金色に浮かび上がらせている。かつて村の病院だったこの建物は、二階の廊下がところどころ崩れ落ち、立ち入り禁止の札もとうに色褪せていた。天井の扇風機だけが壊れずに残り、軋みながら生ぬるい風をかき回している。茜はその羽音に混じる蝉の声を聞きながら、羽織ったままの白いシャツの襟元に鼻先を埋めていた。コットンの匂いに混じる、彼の汗の塩気。
二日前、悠人は実家の売却を決めたと、何でもないことのように告げた。「親父たちが姉ちゃんの近くに越すから、あの家、もう誰も住まないんだ」。その言葉に、なぜか泣きたくなるほど腹が立った。「じゃあ、この病院も来月には更地になるんだよね」と返すと、悠人は黙り込んだ。売られる家も、取り壊される病院も、二人の時間ごと消えていくようだ。それきり、茜は口を利かなくなった。
仲直りのきっかけは、今日の夕方、悠人が誘った溜め池だった。子供のころ、大人に隠れて二人だけで泳いだ場所。水面に飛び込む瞬間だけは、昔と同じ勢いで笑い合えた。濡れた水着の上から悠人のシャツを羽織らせてもらい、帰り道、どちらからともなく足はこの廃病院へ向かっていた。裏口の割れた窓は、子供のころと同じ隙間のまま二人を招き入れる。
二階の元・小児病棟の壁には、鉛筆で刻んだ横線の跡が並んでいる。「悠」「茜」と交互に書かれた印は、悠人が東京の会社に就職した十八歳の夏で途切れたままだった。あの年を境に、顔を合わせる回数は指折り数えられるほどになった。
「今年は何個残ってる?」
いつのまにか隣に来ていた悠人が、フェンスに引っかかった蝉の抜け殻を指差す。毎年八月、二人でこのフェンスに残った抜け殻の数を競う遊びを繰り返してきた。数えるだけの他愛のない遊びが、これほど長く続くとは、あの頃は思ってもみなかった。
「あの落書きも、まだ残ってるんだな」
悠人が壁の身長の跡に指を這わせる。声のトーンが、いつもより低く優しい。茜は視線を落とし、小さく頷いた。
「本当に、家も病院も、なくなっちゃうんだ」
零れた声に、悠人は少し困ったように笑い、彼女の肩を抱き寄せた。
「なくなるのは建物だけだ。ここで数えた抜け殻の数も、この落書きも、俺はちゃんと覚えてる。忘れたことなんて、一度もない」
実感のこもった声に、茜の目頭が熱くなる。三年間、連絡が途絶えがちだった理由も、置き去りにされたように感じていた寂しさも、今この瞬間だけは溶けていくようだった。肩に回っていた悠人の腕がほどけ、その手が茜の頬を包む。

身長の跡が並ぶ壁の下で、素肌に散る夕焼け
悠人の指がシャツの襟元を辿り、茜の耳にかかった後れ毛をそっと払った。骨ばった指先が首筋を掠める感触に、彼女の肩が小さく跳ねる。
「扇風機、生ぬるい風しか出ないのに、なんか落ち着くな」
悠人が呟くと、茜は小さく首を振った。
「悠人の方が近いから、暑いくらい」
軽口に、二人は同時に笑う。その笑いが止む間際、悠人の唇が茜の唇に重なった。啄むようなキスが、次第に深くなる。舌が絡み合うたびに、扇風機の唸る音の向こうで蝉の声が遠のいていくようだった。茜は悠人のシャツの裾を握りしめ、爪先立ちで応える。
唇を離すと、悠人はシャツのボタンを一つずつ外し、茜の肩から滑らせて床に落とした。しゅるりと水着の肩紐がほどけ、胸元が心もとなく緩む。
「変わったな。あの頃は、こんなに近くにいるだけで精一杯だったのに」
茜は頬を赤らめながら、悠人の胸元に手を這わせた。引き締まった感触は、記憶の中の少年のものとは違う。ためらいながらも、その手をベルトへと下ろしていく。
「茜から触るの、珍しいな」
「悠人が、逃げてばっかりだから……今日はわたしから」
言葉と裏腹に震える指先で、茜はベルトを外した。悠人は小さく息を吐き、彼女の手に自分の手を重ねて助ける。くつろげたその下から、昂った熱が姿を見せた。茜は膝をつき、その先端に唇を寄せる。ちゅ、と控えめな音が響き、悠人が短く息を詰めた。舌を這わせるたびに、彼の指が茜の髪を梳き、時折くしゃりと握りしめる。
「そこまで、無理しなくていい」
「無理じゃないよ。十五で背比べしてた頃のわたしに見せたら、卒倒しそう」
悠人は苦笑いを浮かべながら、茜の肩を引き上げ、自分の方へ抱き寄せた。水着の胸元を静かにずらすと、露わになった膨らみに唇を寄せ、先端を舌先で捉える。ちゅ、と控えめな音だけが静かな廊下に響いた。
「んっ……」
茜が悠人の髪を掴むと、彼はさらに強く吸い付き、もう片方の膨らみを掌で包み込んだ。肌に食い込む指の強さに、茜の背が仰け反る。
「ベッド、行こう」
古びたベッドの縁に茜を座らせ、悠人は膝立ちのまま水着の下を脱がせた。錆びたスプリングが軋む音に、二人は思わず顔を見合わせて笑う。この十年、変わらず軋み続けているらしい。
笑いが収まると、悠人は茜の膝を割り、指を伸ばした。敏感な場所を確かめるように往復すると、くちゅり、と滲んだ蜜の音が静かな廊下に響く。
「あ……っ、そこ……」
茜が身をよじると、悠人はその反応を確かめながら指を沈めていく。奥からとろけるような感触が広がり、茜は堪えきれず上体をベッドに沈めた。膝の内側に食い込む悠人の掌の熱さに、腰がびくりと跳ねる。
指を引き抜いた悠人は、仰向けになった茜の膝を割って体を寄せる。昂ったものが入り口にあてがわれると、彼女は無意識に彼の背に腕を回した。
「痛いところ、絶対に言えよ」
「平気、だから……動いて」
茜がこくりと頷くと、悠人はゆっくりと腰を沈めていく。ぬぷ、と熱いものが入り口を押し広げ、圧迫感に茜は短く息を止めた。
「んっ……大きい……」
悠人はいったん動きを止め、額を合わせてくる。汗ばんだ肌同士が触れ、二人の鼓動が近い距離で重なった。
「きつくないか」
「平気。もう、動いても……」
促されるまま、悠人は浅く腰を揺らし始めた。錆びたスプリングが軋む音に紛れて、くちゅ、くちゅと湿った音が重なっていく。茜は彼の肩に爪を立て、揺れるたびに込み上げる痺れに声を漏らした。
「あ、あぁ……そこ……」
悠人が奥を突き上げるたびに、茜の視界の端が滲んでいく。壁に刻まれた身長の跡が、揺れる視界の中でぼやけて見えた。かつて並んで背比べをしていた場所で、こんなふうに彼と繋がっている事実が、頭の芯を甘く痺れさせていく。
霞んだ視界の中、悠人の額から落ちた汗が茜の頬を伝った。間近に迫った真剣な眼差しに射抜かれ、彼女は思わず彼の首に腕を回す。律動が徐々に速まり、二人の呼吸が重なるリズムを刻んでいった。
「家がなくなっても、茜まで手放すつもりはない」
「悠人の、ばか……先に言ってよ」
啜り泣くような声で茜が呟くと、悠人は苦しげに笑い、律動を速めた。奥を穿つ動きが激しさを増し、茜の内側が悠人を締め付けるように収縮していく。二人とも言葉を交わす余裕がないまま、迫り来る波に体を委ねた。
最後に奥を強く突き上げられた瞬間、茜は喉を反らせて悠人の背に爪を立てた。深い痺れが全身を貫き、目の奥が白く弾ける。同時に悠人も低く呻き、震える茜の中に熱を放った。

抜け殻を数え直す、二人だけの夏の続き
気だるさの中、悠人はゆっくりと身を離し、汗ばんだ茜の額に張り付いた前髪を払った。錆びたスプリングが、まだ小さく余韻を立てている。
茜は悠人の胸に頬を寄せ、乱れた鼓動を聞いていた。壁に並んだ鉛筆の跡が、夕焼けの残光の中でまだ淡く見えている。
「家、本当に売るの?」
悠人はしばらく黙ってから、天井の扇風機を見上げた。
「売るのは決まってる。でも、あの壁だけは違う」
「違うって?」
「業者に頼んで、切り出してもらうことになった。茜と背比べした跡、捨てられるわけないだろ」
思いがけない言葉に、茜は目を見開いた。
「そんなこと、二日前は一言も言わなかったじゃない」
「言ったら、茜が甘えると思って」
悠人は決まり悪そうに笑い、それから続けた。
「来年の夏も、抜け殻を数えような。茜が一人で数えなくていいように、俺がこっちに戻る」
茜は思わず噴き出した。
「その理由、抜け殻のせいにするの?」
「半分は本当だ」
悠人は真顔で返し、茜の額に唇を落とす。それから床に落ちたままの白いシャツを拾い上げ、茜の肩にもう一度掛けた。
「それ、返さなくていい。持ってろ」
「そんな簡単に、あげちゃっていいの?」
「悪いか」
軽口を叩き合いながら、茜は袖にゆっくりと腕を通し、もう一度悠人の胸に頬を寄せた。扇風機の羽根が軋む音の向こうで、蝉の声がひときわ大きくなる。目を閉じ、悠人の鼓動に耳を澄ませながら、茜はこの音をもう二度と、遠い記憶の中だけのものにはしないと思った。

この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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作者より月森 潤

廃病院で再会する二人を書くにあたり、「三年」や「幼なじみ」という言葉を直接説明するのではなく、壁に刻まれた鉛筆の身長の跡や、毎年数え合ってきた蝉の抜け殻という、二人にしか意味の分からない小道具に積み重ねてきた時間を託すことを意識しました。 喧嘩の理由を「実家の売却」という具体的な出来事に絞ったのも、漠然とした距離ではなく、二人が本当に手放したくなかったものが何なのかを、悠人自身の言葉で語らせたかったからです。最後に彼が「壁だけは切り出してもらう」と告げる場面には、失われていくものの中で何を残すかという選択が、そのまま二人の関係を続ける選択と重なるように仕掛けています。 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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