
薄紅の唇に宿る蜜の跡
薄紅の唇に宿る蜜の跡
三年間、このひとと私はずっとライバルだった。
同じ業界の最前線で、互いの企画書を鎬を削るように磨き合ってきた。商談の席で目が合えば、無言の火花を散らした。神谷一輝、堅牢な仕事ぶりと鋭い洞察で、気づけばいつも私の一歩先にいる男。彼に追いつきたくて、追い越したくて、それが私のすべての原動力だった。
老舗お茶屋「風雅」の二階個室に、夕日が障子を透かして差し込んでいる。畳の縁が金色に染まる中、正面に座る一輝は背筋を伸ばしていた。会議室で私の提案を淡々と論破してきたときとは違う。その視線だけが、今日はどこか違った熱を帯びていた。
今日ここに呼ばれたのは、親の決めた縁談の話をするためだ。
一ヶ月前に両家の合意が済んでいた。私たちはただ顔を合わせて、形式的な了承の言葉を交わせばいい。それだけのはずだった、あの夜のことさえなければ。
酔いの回った席で、彼が私の手首を掴んだ。廊下の隅まで連れていかれ、有無を言わさず唇を重ねられた。突き飛ばそうとした私に、彼は低い声で「ずっと、そうしたかった」と言った。薄暗い廊下で二人きり、彼の瞳は真剣で、少しも酔っているようには見えなかった。
あの口づけは、蜜のような甘さの後に、奇妙な苦さを残した。
私が彼のことを考え始めたのが、いつ頃からかは分からない。プレゼンで真っ向から意見をぶつけてくる彼の言葉だけは、なぜかいつも正確に耳に残った。年度末の深夜、廊下で書類を落とした私に黙って手を貸してくれた横顔が、妙に記憶に刻まれていた。ライバルのくせに、彼はいつも私の仕事を正しく見ていた。
「……顔が硬い」
沈黙を破ったのは、彼の方だった。

三年分の距離が溶けるとき
「別に」と返した声が、自分でも不自然だと分かった。
「そうか」
一輝は小さく笑った。仕事の顔ではない、力の少し抜けた表情。三年間、一度も見たことがなかったその笑みに、胸の奥でぱちりと何かが弾けた。
「俺は……お前がいなかったら、ここまで来られなかったと思っている」
唐突な言葉に、息が詰まった。
「どういう意味」
「そのままの意味だ」
彼が手を伸ばし、指先が私の頬に触れた。冷えていたはずの個室の空気が、急に密度を増す。三年間、同じ部屋に何十回と座って、ぶつかり合って、それでも一度も触れたことがなかった手だ。その温度が、頬からじわじわと内側へ広がってくる。
「忘年会の夜、お前は俺を突き飛ばした」
「……当たり前でしょ、あんな突然」
「そうだな」と彼はあっさりと認めた。「だから今日は、ちゃんと言う」
距離が縮まる。彼の瞳が近づき、その奥に揺れる感情が、言葉よりも早く私に届いた。
「好きだ。三年分、ずっと」
ライバルとして削り合ってきた時間の分だけ、その言葉は重かった。会議で睨み合った回数だけ、廊下ですれ違った朝の数だけ。三年間の競争心と焦りと悔しさが、今この瞬間にまったく別の色に染まっていく。
彼の唇が重なると、今度は私から目を閉じた。

名前を呼んだ夜
最初は優しかった口づけが、少しずつ深さを増していく。
彼の手が後頭部に回り、もう逃げられないと分かっても、逃げたいとは思わなかった。舌先が触れ合うたびに、忘年会の夜の戸惑いが遠ざかる。代わりに、三年分の積み重ねが熱となって身体の奥へ広がっていった。
「ふ……っ」
掠れた声が漏れて、恥ずかしさに顔を逸らそうとすると、彼が顎を優しく引いて視線を戻させた。
「ちゃんと俺を見ていろ」
低い囁きに、膝の力が抜ける。ライバルとして正面から向き合ってきた眼差しが、今は全く違う意味で私を捉えていた。
彼の指が帯の結び目を探り当てると、着物の前が静かに解けていく。夕方からすっかり冷えた和室の空気が肌に触れ、私は小さく身震いした。けれど彼の手のひらが肩から背中へと滑った瞬間、そんな寒さなど一瞬で忘れた。
「……眩しいな、お前」
俯きがちな私の顔を覗き込みながら、彼が言った。飾りも比較もない、ただそれだけの言葉。なのに胸の奥が痛いくらいに震えて、目の端が熱くなった。
「馬鹿にしないで」
「してない」
彼の唇が鎖骨に触れた。骨の際を辿るように、そっと、でも確かな力で。全身の産毛が逆立ち、思わず彼の腕を掴んだ。
「んっ……」
唇が胸の膨らみへ移ると、熱い息がかかって乳先が固くなる。そこを舌先でゆっくり舐め上げられた瞬間、甘い電流が背骨を駆け上がった。声を堪えようとしても、唇の隙間から細い喘ぎが漏れ出してしまう。
「感じてる?」
答えを求めているのではなく、ただ確かめたいような声だった。私は答える代わりに、彼の肩に額を押し付けた。
「……意地悪」
「お互い様だろ」
低く笑う声が耳元を掠め、その唇が耳朶を甘く噛む。ぞわりとした感覚が首筋から広がり、胸の奥でなにかが溶け出していく気がした。三年間、仕事の場で一ミリも崩さなかった彼が、今は私の前だけで、こんなにも柔らかく笑う。
その事実だけで、もう充分すぎるくらいだった。
彼の手が太ももの内側へとゆっくり移動する。下着の布越しに触れられた瞬間、全身が強張った。
「あ……っ」
「もう、こんなに」
掠れた呟きに、羞恥で頭が真っ白になる。熱く、濡れていた。三年間のライバルに、自分の欲が露わになっている、恥ずかしいのに、彼の指が動くたびに腰が揺れるのを止められなかった。
「……いやじゃ、ない」
「分かってる」
指が布を脇に退かし、直に触れてきた瞬間、声が出た。堪えようとしたのに、彼の指先が核心を捉えるたびに細い喘ぎが止まらない。膝が震え、彼の腕にしがみつく。
「一輝……っ」
名前を呼んだ瞬間、彼の動きが止まった。
三年間、名字でしか呼んだことがなかった。名前を呼ぶことが、私たちの境界線だった。
「もう一度」
耳元で囁かれ、胸が震えた。
「……一輝」
深く息を吸い込む音がして、彼がゆっくりと私を畳に横たえた。月明かりが障子を透かして差し込む中、彼のまなざしだけが温かく私を包んでいた。
彼が私の上に重なってきて、熱く硬いものが入り口に押し当てられた。
「……入れるよ」
低く、確認するような声。私は目を合わせたまま頷いた。
じわりと、奥へ奥へと彼が来る。狭い内側が押し開かれる感覚に、思わず息をのんだ。彼が動きを止める。
「痛くはないか」
「……動いて」
その言葉が引き金になった。彼が腰を引き、また押し込んでくる。最初はゆっくり、私の反応を確かめながら。やがてリズムが深くなり、奥を突き上げられるたびに喉の奥から甘い声が漏れ出した。
「あっ……あ、一輝、……っ」
名前を呼ぶたびに、彼の息が荒くなる。私を見下ろす瞳の奥に、堰を切ったような熱があった。いつも会議で冷静に私を論破してきた男が、今は私だけで、こんなにも乱れている。
その事実が、また新しい熱を身体の奥へ押し込んだ。
剥き出しになった感情が、三年かけて積み上げてきた競争心と意地を完全に溶かしていく。波が迫り来るのを感じながら、私は彼の背中に指を立て、その名前を呼び続けた。
やがて頂が来て、白い光の中で全身が震えた。少し遅れて彼も深く呻き、腰を根元まで押し込んできた。熱く満たされる感覚に、ぎゅっと目を閉じた。
畳の上で二人だけの時間がゆっくりと流れ、やがて静寂が降りてきた。

二人分の明日へ
彼が静かに体重を引いた後、しばらく二人で並んで座っていた。
月の光だけが和室に残っている。肩が触れ合う距離。三年前だったら、こんなに近くにいることなど想像もできなかった。
「縁談、受けてくれるか」
縁談の言葉は、問いより祈りに近かった。
私は少し考えて、それから口を開いた。
「……ライバルのままでもいい?」
彼が少し間を置いて、今日初めて声を立てて笑った。
「それくらいの方が、俺も張り合いがある」
その横顔を見ながら、胸の奥でじわりと温かいものが広がった。三年間ずっと追いかけてきた背中が、ようやく私の隣に座っている。これからは、同じ方向を向いて走れる。
薄紅に染まった唇に、まだ彼の温度が残っていた。
この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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作者より月森 潤

三年間ライバルとして削り合ってきた二人だからこそ、誰よりも相手の実力を知っている。その長い積み重ねがあるからこそ、打ち明ける言葉ひとつの重さが違う、そんなコンセプトで書き上げた一編でした。 忘年会の夜のキスではなく、老舗お茶屋の個室で「好きだ、三年分、ずっと」と告げる場面を、この物語の核に据えたかったのです。競争心と、その裏側に静かに育っていた感情。二つが交差する瞬間の緊張感を、できる限り丁寧に描きました。 名字で呼び合っていた二人が初めて名前を呼ぶシーン、そこに、三年分のすべてが詰まっていると思っています。「ライバルのままでもいい?」というラストの問いかけは、私自身がいちばん好きな一文です。 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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