
厩舎の影に溶ける真珠色
厩舎の影に溶ける真珠色
扉を開けた瞬間、ハクの高い嘶きが夜気を震わせた。甘えるような、十年前と少しも変わらない響きに、喉の奥が締め付けられる。芽衣は暗がりの奥にある馬房を見つめたまま、その場に立ち尽くした。とっくに手放されたと思っていた老馬が、まだここで息をしている。
今日の仕事帰り、隼人に呼び止められた。「今夜、話がある」。いつもと違う真剣な声に、芽衣は小さく頷いた。指定されたのは、このかつての乗馬クラブだ。
「まだ、ハクがいたのね……」
呟いてから、背後で扉の軋む音がして振り返ると、コートを片手に提げた隼人が、受付の明かりを背にこちらへ歩いてくる。三ヶ月前、芽衣の勤める会社の企画部に中途採用で配属された新人ではあるものの、彼女にとっては十四歳から十七歳までの三年間、この馬場で乗り方を仕込んでくれた「先生」だった。ある日突然、挨拶もないまま姿を消し、以来一度も連絡がなかった。
「毎月の預託料、ずっと俺が払ってた。誰かがちゃんと世話しないと、この子はもう歳だから」
さらりと告げられた事実に、芽衣は言葉を失う。十年間、ずっとこの厩舎の隅で、彼女の知らないところで、彼はハクを守り続けていたということだ。自分こそ、とっくに忘れられているのだと思い込んでいたのに。
最後のレッスンの日、芽衣は革紐を編んで作ったミサンガを、照れながら隼人の手首に結んだ。「先生、これお守り」。彼はそのとき困ったように笑っただけで、翌週にはもう馬場から姿を消していた。てっきり捨てられたと思っていたそのミサンガが、今、隼人のシャツの袖口からわずかに覗いている。色褪せてはいるが、ほどけずに残ったままだった。
「今日はその話をしに呼んだわけじゃない」。隼人はハクの首筋を撫でながら、静かに続けた。「来週から関西のプロジェクトに出る。芽衣、英語ができるから通訳として来てほしいんだ」
一ヶ月前、忘年会の帰り道で告白されて以来、答えを出せずにいた。毎日顔を合わせるたびに、後輩への気遣いだと思い込もうとしてきた優しさが、実はずっと変わらない執着だったと知った今、逃げ場がなくなっていく。

手綱の記憶をたどる指先
「返事は、向こうから戻ってからでいい」。隼人は芽衣の手を取り、ハクの馬房から少し離れた厩舎の物陰へと導いた。掌に触れた指の感触に、遠い記憶が重なる。落馬しかけた芽衣の腕を、とっさに掴んで支えたときの、あの硬い掌だ。
「怖がりだったお前が、ハクの背に乗れるようになった時の顔を、一番近くで見てたのは俺だ」
隼人の声が耳のすぐそばで響く。芽衣は俯いたまま、頬が熱くなるのを感じた。あの頃、彼に褒められたくて無理をしては、何度も転んだ。彼が黙って見守ってくれる時間が、当時の自分にとって世界のすべてだった。
「なんで、何も言わずにいなくなったの」。ようやく絞り出した問いに、隼人は目を伏せた。
「言ったら、連れて行きたくなる。まだガキだったお前を巻き込めなかった。それに、家の都合で急に遠くへ移ることが決まっていたんだ」
その答えに、芽衣の中で長い間固まっていた何かが崩れていく。怒りでも安堵でもない、ただ、待たされていた時間の重みが体温に変わっていくような感覚だった。
「就職先、調べたのは俺だ。求人票に会社名を見つけたとき、迷わず面接を受けた」。隼人は袖口のミサンガに視線を落とし、それから芽衣を見た。「十年待って、三ヶ月かけて同じ部署まで来た。もう十分だろ」
隼人の指が芽衣の手首を辿り、二の腕、肩へと上っていく。ブラウスのボタンを一つ外す音が、静かな厩舎に響いた。
「隼人先生って、呼んでいい?」
「今だけな」。隼人は小さく笑い、芽衣の唇を塞いだ。舌先が絡み合うと、十年分の沈黙が熱に変わって流れ込んでくる。キスの合間に残りのボタンを外し終えると、ブラウスの前が開かれ、素肌に夜気が触れる。隼人の唇が耳朶を食み、首筋へと落ちていく感触に、芽衣は小さく身をよじった。
「あ……っ」
小さな声が漏れる。控えめな胸のふくらみを、隼人は両手で包み込み、先端を舌先で転がした。刺激を受けるたびに、そこはみるみる薄紅から真珠のような色へと染まっていく。
「変わってないな、ここ」
「言わないで……恥ずかしい」
芽衣は隼人のシャツを掴み、引き寄せるように体を預けた。二人はもつれ合うように冷たい床の上へ沈み込む。隼人は芽衣のスカートをたくし上げ、下着を脱がせると、自身のベルトを外して取り出し、芽衣の脚の間に体を割り込ませる。
「挿れるぞ」
短い言葉と共に、熱いものが芽衣の入り口をこじ開けていく。圧迫感に息を詰めると、隼人は動きを止め、額を合わせてきた。
「大丈夫か」
「うん……ゆっくり、来て」
頷くと同時に、隼人は腰を沈め、奥まで一息に貫いた。ぐちゅり、と湿った音が厩舎の静寂に響く。
「んっ、あぁ……」
隼人が腰を引き、また深く沈めるたびに、芽衣の背が冷たい床の上で弓なりに反った。馬の匂いと隼人の汗の匂いが混ざり合い、頭の芯まで痺れていく。
「芽衣、目を開けてくれ。ちゃんと俺を見て」
言われるまま瞼を開くと、月明かりに照らされた隼人の顔が間近にあった。真剣な眼差しに射抜かれ、芽衣は彼の背に腕を回す。
「もっと……奥まで」
囁くと、隼人の律動が速さを増した。ぐちゅ、ぐちゅ、と重なる水音に合わせて、芽衣の内側が痙攣するように締まっていく。
「隼人……っ、来る……」
「一緒に」
隼人が奥を強く突き上げた瞬間、芽衣は彼の背に爪を立て、大きく身を震わせた。同時に、隼人も低く呻きながら、芽衣の最奥に熱を放つ。

厩舎の静けさに残る約束
気だるさの中、隼人はゆっくりと身を離し、荒い息のまま芽衣の隣に横たわった。ハクが小さく鼻を鳴らす音だけが、二人の呼吸に寄り添っていた。
芽衣は隼人の胸に頭を預け、乱れた鼓動を聞いていた。
「関西から戻ったら」。隼人は芽衣の髪を指で梳きながら言った。「今度こそ、ちゃんと隣にいさせてくれ。先生としてじゃなく、隼人として」
芽衣は体を起こし、隼人の顔を見下ろした。月明かりの下、あの頃と同じ、まっすぐな瞳がそこにあった。もう迷わない、と芽衣は思う。
「向こうから戻るまで待たない。返事は、今」
隼人が息を止める。芽衣は彼の頬に手を添え、静かに続けた。
「十年待たせておいて、逃がすと思う?」
隼人の喉が小さく鳴った。答える代わりに体を起こし、芽衣を抱き寄せる。表情が緩み、腕に力がこもった。彼は袖口の色褪せたミサンガに指をかけ、そっとほどくと、芽衣の手首に結び直す。
「もう、俺の袖口で眠らせておくものじゃない。お前のところに、ずっとあるべきだったんだ」
ハクが厩舎の奥で、ゆったりと蹄を鳴らした。関西から戻ったら、今度は二人でこの子に会いに来よう。そう思いながら、芽衣はもう一度、隼人の胸に頬を寄せる。二人の間に流れていた長い時間が、ようやく同じ速さで動き始めていた。

この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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作者より月森 潤

厩舎という、日常から少し隔たった場所を舞台に選びました。十年という時間を言葉で説明するのではなく、誰にも気づかれないまま隼人が払い続けていた老馬の預託料や、色褪せても捨てられなかったミサンガのような、地味だけれど動かしようのない事実で描くことを意識しました。 乗馬を教わっていた少女時代の記憶と、今の職場での新人という立場が重なり合う中で、隼人の執着がどこから来たものかを丁寧に積み上げられたらと思います。最後に「逃がすと思う?」と答えを差し出すのが隼人ではなく芽衣自身であるところに、この二人らしい決着を込めました。 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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