想いがほどける吹雪の夜

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三年間、隣にいた音

深夜のオフィスに、赤ペンが紙をこする乾いた音だけが響いている。迷いのない筆致で、彼はいつも一発で核心を突く。残業の夜、企画二課の島に残っているのは、たいてい彼女と彼、二人だけだった。彼女はその音を、もう三年間、数えきれないほど聞いてきた。

彼が使っている赤ペンは、キャップの先が擦り切れて色が剥げている。「もう新しいの買ったほうがいいですよ」と何気なく言った彼女に、彼は「これじゃないと入らないんだよ、赤字が」と笑って取り合わなかった。理由になっていない返事だったが、彼女はそれ以上聞かなかった。

新人研修を終えたばかりの彼女が企画二課の島に案内された初日、真っ先に声をかけてきたのが彼だった。「わからないことがあったら、遠慮なく聞いて」。飄々とした態度の下に、仕事への厳しさをきっちり隠し持っている人だと知るのは、それからすぐのことだった。

配属から半年後、初めて任された企画書の草案を提出したとき、彼はその赤ペンで容赦なく紙面を埋めた。「甘い。この数字の根拠はどこにある」。悔しくて給湯室で涙をこらえたことを、彼女は今でも覚えている。それでも彼は、徹夜で作り直した二稿目を隅々まで読み込み、「ここは良くなった」と、それだけ素っ気なく告げた。褒め言葉に飢えていた新人には、それだけで十分だった。

以来、彼女が遅くまで残っていると、彼は決まって給湯室の電気ケトルを勝手に沸かし、断りもなく二人分のマグカップを机に置いていった。何も言わずに置かれたそのカップの湯気に、彼女はその日何度救われたか分からない。二年目の秋、担当したキャンペーン案が役員会で酷評された夜も、彼は缶コーヒーを二本買ってきて、隣のデスクに黙って腰を下ろした。「俺も三年目のとき、似たようなことがあった」。慰めるでもなく、ただ隣にいてくれた時間が、思いのほか心を軽くした。

逆に、彼の企画がクライアントに難色を示されたときは、彼女のほうが資料を作り直し、深夜のオフィスで並んで修正案を練った。「お前の視点、たまに俺より鋭いな」と彼が笑ったのは、その帰り道のことだ。予算配分で意見が割れ、声を荒げたことも一度や二度ではない。それでも翌朝には、どちらからともなく「昨日はごめん」と言い合える距離感が、いつの間にか出来上がっていた。友達と呼ぶには近すぎて、恋人と呼ぶには一線を引きすぎている、そんな三年間だった。

そして今夜、二人は社員研修の一環で山間のロッジを訪れていた。明日のワークショップで使う資料を暖炉のある談話室で最終確認していたところ、猛烈な吹雪で下山用のバスが運休になったという知らせが届く。他の参加者たちはとうに部屋へ引き上げ、談話室に残っているのは彼女と彼、二人だけだった。

壁面の大きな窓ガラスには結露が薄く広がり、その向こうで舞い落ちる雪片が室内の明かりに照らされて煌めいている。床材の無垢な木目を踏みしめながら、彼女はラグの上に広げた資料を片付けようとした。その手を、彼が止めた。

「まだ、いいだろう」

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呼び方をひとつ、手放す夜

彼はラグの上に座り直すと、止めたその手をそのまま引き寄せ、自分の隣に座らせた。

「寒いだろう」

低く響くその声は、いつもの会議室での声とはまるで違う。指先が冷えていることを確かめると、彼は両手でそれを包み込むように温め始めた。触れた瞬間、腕の産毛が逆立つような感覚が走り、彼女は思わず息を呑んだ。

「……主任」

長い間、当たり前のように呼んできた肩書きが、今夜はやけに他人行儀に響く。彼はそれを察したように手を離すと、人差し指で彼女の唇の端をなぞった。

「その呼び方、そろそろやめてほしいんだけどな」

「え……」

「入社してすぐの頃、お前の企画書に赤字入れまくったの、根拠のない甘さが許せなかったからだと思ってただろう」

彼女は言葉に詰まった。まさにその通りだったからだ。

「半分は本当だ。でも残りの半分は……お前にちゃんと目を留めてほしかっただけだ」

告白と呼ぶには不器用すぎる言葉だったが、彼女の胸の奥で、何かが音を立てて崩れていくのがわかった。友達だと思い込もうとしてきた時間が、根元から溶けていく。

彼女が耳の後ろに落ちた髪を無意識に払うと、彼はその手を追いかけるように頬に触れた。

「その仕草、三年間ずっと見てた。緊張したときの癖だろう」

指摘され、彼女は驚いて目を見開いた。誰にも気づかれていないと思っていた癖だった。

「今日一日、お疲れ様」

言い残すと、彼はゆっくりと俯いて唇を重ねてきた。

唇が触れ合う刹那、暖炉の熱気とは別種の熱が胸の奥から噴き出す。彼女の目は閉ざされ、全身を甘い痺れが駆け抜けていく。彼の舌が口内を丁寧に巡る。見慣れていたはずの彼なのに、初めて触れるその熱だけは、まったく知らない人のもののように感じられた。

「んっ……」

小さな喘ぎが漏れると、彼はそれを逃さず唇を深く開いた。彼女の指先が彼のジャケットの生地をつかみ、微かに震える。

「もう、隠すのはやめようか」

彼の声はかすかに掠れ、どこか決定的だった。彼女がうなずく間もなく、彼の手が背中のファスナーを引き下ろす。軽い音と共に、彼女の服が肩から滑り落ちた。寒気が襲う直前、彼の熱い掌が腰回りを包み込む。彼は彼女をラグの上に横たえた。

雪解けへ向かう肌と声

「あ……」

皮膚と皮膚が直接触れ合う感覚に、彼女の身体が硬直した。窓の外は凍えるような雪景色なのに、彼の指先だけが異常なほど熱い。胸の膨らみを優しく押し上げられ、乳首が硬く突き立っていることを彼が感じ取ると、彼は俯いてその頂を舌先で舐めた。

「うんっ……!」

激しい刺激に腰がくねり、ラグの上に横たわった彼女の体がしなる。彼の呼吸が胸元に吹きかかり、湿った温もりが肌の上を伝っていく。

「あの缶コーヒー、覚えてるか。役員会でボロカスに言われた夜の」

胸元に唇を這わせながら、彼がぽつりと言った。

「……覚えてる、けど……なんで今」

彼女は掠れた声で聞き返した。

「あのとき、本当は肩を抱きたかった。でも上司と部下だから、我慢した」

言いながら、彼の手が下着の縁を辿る。

「私……まだ、部下なのに」

戸惑いを滲ませた呟きに、彼は軽く笑った。

「部下じゃなくて、ただの女として抱きたいから、こんなに好きなんだよ」

言い放つと、彼は下着を脱がせた。露わになった彼女の奥がすでに湿り気を帯び始めていることに気づき、彼は指を一本ずつ滑り込ませていく。

「んあ……っ」

入り口で微かな抵抗を感じたが、指が進むほどにそこはひらいていった。二本、三本と割り入るたびに奥深くまで広がっていく疼き。彼の親指が敏感な芽を同時に刺激し続けるせいで、彼女の意識はぼんやりと霞んでいく。

「これじゃ、足りない」

言葉が形になる前に、彼は身体を起こすと、性急に自分の衣服を緩めた。

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深く重なる熱と鼓動

熱いものが入り口に押し当てられ、沈み込んでくる。張り裂けるほどの充溢感に、彼女は彼の肩に爪を立てた。

「あ、あぁっ……!」

ずっと目の前の席にいながら決して触れられなかった熱が、今、内側から満ちていく。最初は圧迫感が勝っていたが、彼が浅く腰を揺らすたびに、それはじわりと快楽へ変わっていった。

「……痛くはないか」

「うん……もっと」

短いやり取りの後、彼の律動が少しずつ深く、強くなっていく。二人の体温がラグの上で溶け合い、暖炉の炎が壁に長い影を落とす。彼が腰を打ちつけるたびに、蜜を含んだ濡れた音が静かな部屋に響き渡った。

「三年間、隣にいたのに」

腰を突き入れながら、彼が掠れた声で言った。

「気づかないふりして、悪かった」

「今さら……そんなの、ずるい」

言葉の途中で声が快感に途切れる。奥を突かれるたびに背筋が反り、視界の端が白く弾けていく。彼の手が繋がった場所の少し上、いちばん敏感な粒を撫でると、彼女の身体は大きく跳ねた。

「だめ……そこ、一緒にされたら……」

「いいから、そのままイけ」

低い声に押されるように、腹の奥から込み上げるものが一気に膨らんでいく。彼が最後にひときわ深く腰を打ち込んだ瞬間、彼女の頭の芯が甘く痺れていった。

「もっと早く、気づいてほしかった……」

彼女はありったけの感情を込めて叫んだ。彼の瞳に映る自分の表情が、これまでとは違う輝きを放っている。彼もまた低く息を詰め、最後にもう一度深く腰を沈めてから、彼女の耳元に額を寄せた。

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雪解けの朝への予感

最後の震えが引いていくと、彼女の全身から力が抜けた。満たされた気だるさの中、彼が上から覆い被さり、乱れた息のまま彼女の耳元にキスを落とす。

「いい子だ」

囁く声は、これまでのどんな言葉よりも優しかった。

やがて彼は体を横へずらし、彼女の身体を胸に抱き込むようにして隣に寝転がった。彼女は彼の腕の中で、暖炉の炎が揺らめくのを眺めた。凍えていた体が温まり、心もどこか軽く浮いているような感覚がある。外ではまだ雪が降りしきる音が聞こえるが、部屋の中は静けさに包まれていた。

「ねえ」

「うん」

「もう、赤字は入れてくれないの」

冗談めかして聞くと、彼は一瞬きょとんとしてから、声を立てて笑った。

「まだ、赤字が欲しいのか」

「ううん」

彼女は首を横に振り、彼の胸に頬を寄せながら続けた。

「あの頃の赤字、本当は全部大事に持って帰ってた。根拠のない甘さが許せない、ってだけじゃなかったんでしょう」

「……ばれてたか」

彼は観念したように息を吐き、彼女の髪を梳いた。

「甘えられる隙を、お前にだけは見せたくなかった。缶コーヒーも、ケトルの湯気も、全部その代わりだったんだよ」

思いがけない告白に、彼女は言葉を失った。何気ない気遣いだと思っていたものの一つひとつに、彼の不器用な想いが染み込んでいたのだと、今さらのように胸が締めつけられる。

「あの赤ペン、もう買い替えないの」

彼女がふと聞くと、彼は少し驚いた顔をしてから、笑って答えた。

「お前が最初に指摘したやつだろ。あれは、お前と出会ってから使ってるやつだから、なんとなく手放せなくてな」

「……知らなかった」

「明日から、また『主任』って呼ばなきゃいけないのかな」

彼女がぽつりと零すと、彼は小さく笑った。

「会議室ではな。でも」

彼は肘をついて上体を起こすと、言葉を切り、彼女の顔をのぞき込む。

「二人のときは、名前で呼んでくれないか」

「……悠さん」

初めて口にした呼び方に、彼が一瞬息を止めた。それから照れくさそうに、彼女の額に唇を寄せる。

「うん。今夜だけじゃない。これから、ずっとだ」

彼女は微笑み、彼の胸にもたれかかった。積み重ねてきた言い争いも、缶コーヒーの夜も、深夜の修正作業も、断りもなく置かれた二人分のマグカップも、擦り切れた赤ペンを手放せなかった理由も、すべてが今この瞬間へと繋がっていたのだと、初めて実感する。友達でも上司でもない関係へ変わっていく怖さより、今この腕の中にある安らぎのほうが、ずっと大きい。

窓の外では、雪はまだ静かに降り続いている。けれど二人の間では、積み重ねてきた時間の分だけ、何かが確かに溶け始めていた。

この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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作者より月森 潤

月森 潤

使い古された赤ペンの描写から、二人の不器用な距離感を表現したいと考えました。厳しい指導の裏に隠れた、電気ケトルの湯気や缶コーヒーといった静かな気遣いが、三年の歳月を経て大きな熱量に変わる過程を丁寧に描いたつもりです。仕事仲間としての信頼が、いつしか誰にも言えない恋心へと変質していくもどかしさを大切にしました。 舞台を雪山のロッジに移し、外の寒さと暖炉の熱気の対比を強調しました。特に、当たり前だった「主任」という呼び方を手放す瞬間の心の揺れや、誰にも気づかれなかった癖を指摘される場面にこだわりました。張り詰めていた緊張がほどけ、互いの肌の熱に溺れていく様子を官能的に綴ったと思います。静寂に包まれた空間で、二人の呼吸だけが重なっていく感覚を表現できたのではないかと感じました。 読んでいただきありがとうございました。

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