
鏡越しに灼きつく最後の視線
薄紅の照明に滲むマスカラの匂い
薄紅色に灯る楽屋の照明の下、大歓声の余韻がまだ耳の奥にこびりついている。床には使い古したテーピングの切れ端や、滲んだマスカラを拭ったコットンが散らばり、汗と制汗剤の匂いに混じって、誰かの香水の残り香がかすかに漂っていた。中央の姿見の前に座り込み、美月は震える指先でヘアピンを外していく。鏡に映るのは、フリーの最終ジャンプを跳び終えたばかりの、まだ上気した頬の自分だった。
滑走靴を仕舞うバッグの持ち手には、小さなブレードガードを模したエナメルのチャームが揺れている。ジュニア時代、初めてトリプルアクセルを決めた夜、涼介が黙って寄越したものだった。同じ大会に名前を並べられるたびに、意識しないふりを重ねてきた月日。応援に来ているはずもないのに、リンクの端に彼の姿を探してしまう癖だけは、最後まで抜けなかった。
去年の全日本選手権、ウォームアップで足首を捻った美月のブーツの紐を、彼は何も言わずに結び直してくれた。あのときの指先の熱さを、今でも覚えている。今夜だけは、その記憶に蓋をしようと決めていたはずなのに。

鍵の回る音とためらう指先
低いノックの音がした。三度、少し間を置いて二度。彼女だけが知っている、涼介の癖のあるノックだった。震える指先で鍵を回すと、扉の向こうに立っていたのは、案の定、涼介だった。戸を閉める音とともに、会場に残るざわめきが遠のく。ここには二人分の呼吸だけが残った。
「表彰式、出なくてよかったの?」
「あとで顔を出す。今夜は先に、お前に言いたいことがあった」
彼は美月の足元に膝をつき、あの日の記憶をなぞるように、足首にそっと触れた。
「もう、痛まないのか」
「うん……あの日結んでくれた紐のおかげ」
「ライバルのくせに世話を焼くなって、ずっと自分に言い聞かせてきた」
彼は苦笑しながら身を起こし、美月をまっすぐに見つめた。
「でも、今夜で最後だと思ったら、我慢する理由がなくなった」
その一言に、喉の奥が詰まる。拒む言葉より先に、美月の指先が彼の袖をつかんでいた。
「……鏡の前まで、来て」
震える声で告げると、彼は美月の手を取り、鏡の方へと促した。背後に回り込むと、背中に回った両手が、衣装の背中のジッパーを探り当てる。金属が滑る小さな音とともに、布地が緩んで肩からこぼれ落ちる。
「あ……」
冷えた空気が素肌に触れるより先に、鏡越しに視線が絡んだ。彼の瞳は、リンクでライバルを見据えるときの鋭さとは違う、揺らめく熱を宿していた。
「そんな熱っぽい目で見ないで」と、美月は小さく笑って呟いた。
「今さら隠しても遅い」
言葉と同時に、後ろから伸びた腕が美月を抱き寄せる。振り向かせるように顎を掬われ、唇が重なった。柔らかく、けれど確かな力で舌が絡み合う。鏡に背中を押し当てられ、ガラスの冷たさと彼の体温の対比に、声が漏れた。
「んっ……」
「今夜だけは、意地を張らなくていい」
囁きながら、彼の掌が下腹部を這い、布越しに敏感な場所を探り当てる。
「あ……そこ、だめ」
堪えきれない声が漏れ、膝から力が抜ける。彼は美月を支えながら、太腿の間に身体を割り込ませてきた。
「はい」
浅く綻んだそこへ、彼のものが押し入ってくる。抵抗なく、けれど確かな質量で満たされていく感覚に、美月は目を閉じた。

鏡に重なる音、忘れていた棘の記憶
絡み合う吐息が整うより先に、涼介はいったん身体を離すと、美月の肩をそっと抱いて鏡へ向き直らせた。躊躇う間もなく、背後から再びゆるやかに満たしていく。
腰を打ちつけられるたび、彼の胸板が背中に密着し、鏡の冷たいガラスに胸の先が擦れて甘い痺れが走る。汗ばんだ肌が張りつき、思考が霞んでいく。
「もっと……涼介」
名前を呼ぶと、抱きしめる腕に力がこもった。
「その呼び方、ずっと待ってた」
掠れた声が耳元で響く。鏡の中の二人は、同じ律動で揺れていた。ふいに、あの日足首の紐を結び直してくれた指先の記憶が重なる。
「もう痛くない?」
「うん……今は、熱いだけ」
律動が速まり、奥を突かれるたびに視界が滲む。
「あ……あぁ……」
甘い声が、狭い楽屋に響いた。
「美月」
背後から名を呼ぶ声に、心が震える。張り詰めていた理性が、糸のようにほどけていく感覚の中、鏡の中の彼の顔を見た。そこにあるのが何なのか、美月にはもう分かっている。ずっと目を逸らし続けてきた気持ちに、今夜だけは名前をつけてもいい気がした。
「本当はずっと、リンクの外でも隣にいたかった」
言葉と同時に、最奥で熱いものが弾ける。深い痺れが全身を貫き、美月は声にならない声を上げた。

白む窓辺に交わす次の約束
力を失った膝が崩れ、二人はそのまま床にへたり込んだ。窓の外がわずかに白み始めている。乱れた呼吸を整えながら、美月は彼の胸に頬を寄せていた。
「黙って靴紐を結び直すような不器用さ、直った?」
からかうように尋ねると、涼介は苦笑した。
「直ってない。だから今度は、ちゃんと言葉にする」
美月のバッグに揺れるブレードガードのチャームを指先で弾きながら、彼は続けた。
「引退した君を、どこへ連れて行くか、もう決めてる」
「え……」
「コーチとしてリンクに立つのでも、隣で見ているだけでもいい。俺の傍にいてくれ」
鏡に映る二人は、互いの汗を拭うように手を伸ばし合っていた。朝の光が、チャームの縁を淡く光らせている。
「まだ決めなくていいよ」
美月は微笑んだ。鏡越しに交わし続けてきた視線は、この夜を境に、隠す必要のないものに変わっていた。
この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
おすすめアイテム【PR】
※アフィリエイトリンクを含みます。
作者より月森 潤

フィギュアスケートのリンクを舞台に、ライバルとして積み重ねてきた時間を、具体的な小道具に託して描きたいと考えました。ジュニア時代に贈られたブレードガードのチャームと、全日本選手権で結び直された靴紐の記憶。前者は彼がそれを指先で弾く仕草で、後者は終盤の「黙って靴紐を結び直すような不器用さ」という一言で、それぞれ回収しています。彼の不器用な優しさが、この夜初めて言葉に変わる瞬間として描きました。 特にこだわったのは、姿見という小道具です。ライバルとして鏡越しに視線を交わし続けてきた二人が、その同じ鏡の前で恋人として抱き合う対比に、関係性の変化を託しました。「そこにあるのが何なのか、美月にはもう分かっている」という一文に、長年目を逸らしてきた気持ちにようやく名前をつける瞬間を込めたつもりです。 引退という区切りの夜だからこそ滲む寂しさと、その寂しさごと抱きしめてくれる相手がいる幸福を、丁寧に綴りました。読んでいただきありがとうございました。
関連する官能小説

冷えたショーケースの向こう側
バニラとキャラメルの甘い匂いが漂う洋菓子店の厨房。閉店後の仕込みはいつも二人組で、パティシエの彼が理由をつけて彼女を引き止めていたことに、彼女はうすうす気づいていた。突然の豪雨で通用口に足止めされた夜、いつもの『風邪、ひくよ』が、今夜だけは違う響きを持って聞こえた…
続きを読む →
残り火が揺れる書斎の吐息
高校時代、進路相談室で本を手渡してくれた恩師と、隣の席で机を並べることになった彼女。挨拶を交わすだけだったはずの日々は、朝に置かれる無糖のコーヒーや、夕立の夜にかけられた上着といった小さな積み重ねに変わっていた。「折り入って相談がある」と呼び出された書斎の静けさの中で明かされるのは、ずっと言葉にできなかった彼の想いと、書斎に並ぶもう一冊の同じ本。教え子と恩師という一線がついに溶け出す、じれったくも濃密なラブストーリーです。
続きを読む →
超音波室に残る冷たいジェルと熱い吐息
静寂が重厚なカーテンのように部屋を包んでいる。日中は稼働音と話し声で忙しないエコー室も、日付が変わる頃には医療機器のかすかな作動音だけが息をしているように響いていた。中央の施術台には、夕方の点検で消毒を終えたシーツが敷かれ、乾いた清潔さだけ…
続きを読む →
