揺れるシートの隙間から零れる鼓動

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引き返せない夜に、積み重ねた時間が溢れる

大学のゼミで彼と出会ったのは、一年半前の春だった。

発表会が終わり、誰もが荷物をまとめて帰る流れのなかで、彼だけが残って私の資料を手に取った。「ここ、引用の出典が面白いな。読んだことある?」──その一言が、すべての始まりだった。

卒業後は週に一度、決まった金曜日に顔を合わせた。行きつけのカフェのカウンター席で、コーヒーが冷めるのも忘れて言葉を交わした。彼が薦める本はいつも私の予想を裏切り、読み終えるたびに世界が少しだけ広がる感覚がある。私が話す些細なことにも、彼は真剣に耳を傾けてくれた。

これでいい、と思っていた。「友達」という言葉を纏っていれば、少なくとも失うことはない──そう言い聞かせながら、一年半のあいだ、彼の隣の席をあたためてきた。

今夜、その均衡が崩れた。

最後まで見送るつもりで、助手席に乗り込んだ。深夜のサービスエリアに停まった引っ越しトラックの車内は、外の喧騒が遮断された静寂に包まれている。運転席の彼は先ほどから目を閉じ、仮眠を取っている。明日からこの街を離れる彼に「おめでとう」と言ったあの夜、自分の声がどれだけ震えていたか、今ならわかる。

激しい雨が窓を打ち続ける。街灯の光が水滴を伝い、車内の内張りに細かな光の粒を散らしていた。

私はそっと目を閉じた。一年半分の金曜日が、まとめて胸に押し寄せてくる。

次の金曜日には、もう彼はいない。

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降りやまない雨に、言えなかった言葉が滲む

一年半という時間は、思っていたより多くのものを積み上げていた。

去年の梅雨に一緒に食べた冷やし中華の話。彼が風邪で来られなかった金曜日の、妙な手持ち無沙汰。仕事で落ち込んでいた私に、カウンター越しに差し出してくれた少し苦いコーヒーのこと。

どれも言葉にはしなかったけれど、そのすべてが今も胸に刻まれている。

「友達だから」と言い聞かせてきた。それは本当のことだったし、嘘でもあった。

「……眠れないのか?」

まどろんでいたはずの彼が、ふと目を開けた。薄暗い車内で、街灯の光が彼の横顔を淡く照らしている。私はとっさに視線を窓へ逃がしたけれど、彼はじっと私を見ていた。

「なに見てたんだ」

「……雨」

「嘘だ」

彼の声はいつもより低く、ぬくもりが混じっている。ゆっくりと身を起こした彼の顔が、すぐそこにあった。慣れ親しんだ、彼の香り。胸の奥で、何かがじわりと溶け始めた。

「なんで泣きそうな顔してるんだ」

泣きそうだなんて、気づいていなかった。でも彼に言われた途端、目の奥が熱くなった。

「……気づかないで」

唇だけで笑おうとした瞬間、彼の指先が頬に触れた。

冷たくて、でも確かな体温がある。その手のひらが、一年半のあいだ「友達」と呼び続けてきた境界線を、やさしく押しつぶしていく。

「お前が思ってるより、ずっと前から気づいてた」

胸が、飛び上がりそうになった。

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唇が重なる瞬間、一年半の時間が意味を持つ

「私、ずっと──」

言い終わらないうちに、彼の唇が重なった。

驚いて目を見開いたまま、でも次の瞬間には瞼が落ちていた。柔らかくて、少し不器用で、それでいて全力の──彼のキスだった。

(あ、と思った。ずっと、これが欲しかったんだ)

一度離れ、すぐにまた唇が触れた。今度はもう少し深く、ゆっくりと。彼の吐息が、私の吐息と混ざっていく。激しいはずの雨音さえ、遠のいていく。

「……行かないで」

「行かなきゃいけない」

「うん、それくらい覚悟してる」

彼は私の額に、自分の額を当てた。しばらく、そのまま黙っていた。雨音だけが静かに車内を満たしている。

「お前がそういう顔するなら、俺も正直に言う」

そっと彼の腕が肩に回り、引き寄せられる。

「ずっと、好きだった。言えなかっただけで」

胸が、ぎゅっと締め付けられた。うれしくて、せつなくて、今夜限りのことなのに永遠みたいな感覚がある。

「……私も」

「とっくに、気づいてたよ」

彼が笑うと、釣られて私も笑った。涙が滲んでいたことに、そのときやっと気づいた。

彼の胸に顔を埋めた。着古したシャツの感触と、規則正しい鼓動。一年半、毎週金曜日に積み上げてきた時間が、いまここで確かな形を持って私の中に収まっていく。

「離れても、俺はお前のことしか考えない」

「……うそ」

「本気だ。忘れるなよ」

そっと私の頬に唇が落ちた。あたたかくて、少しくすぐったくて──それ以上の何かへの、ためらいのない誘いだった。

密室の熱に、ふたりの夜が深まる

「……もっと、したい」

声に出すつもりはなかった。でも彼の腕の中で、その言葉はするりとこぼれていた。

彼がゆっくりと顔を起こし、私を見た。薄暗い車内で、その目が一瞬だけ驚いたように揺れた。

「……俺も」

低く落ちた声が、耳の奥まで届く。

もう一度、唇が重なった。今度はさっきより深く、迷いなく。彼の手が頬から首筋へと滑り、その熱さに思わず息を漏らした。

「ここで、いいのか」

「……いい」

「ほんとうに?」

「……うん」

答えた瞬間、彼の指先がゆっくりとブラウスの第一ボタンに触れた。確かめるように、一つずつ。

「やめろと言ったら、すぐやめる」

彼のその言葉に、胸の奥がぎゅっと締まった。こんな夜に、こんな場所で、それでも私を確かめようとしてくれている。

布地が開かれていく。夜気が肌をかすめた直後、彼の掌が覆いかぶさる。大きくて、温かくて、まるでそこに収まるようにぴったりとあてられた。

「……っ」

声が出た。自分でも驚くほど素直に。

「つらくないか」

「……大丈夫。こわくない」

怖くないというより、むしろその正反対のものが込み上げていた。胸の奥がとろとろと熱くなって、彼の指先が動くたびに、全身から力が抜けていく。

狭い車内で、彼はやけに丁寧に私のことを探していた。急がず、試すように、どこで私が声を上げるかを静かに確かめながら。

「……あ」

「ここか」

低い声で確かめながら、彼の指先が敏感な場所を撫でた。じわりと広がる甘い痺れに、私は彼の腕にしがみついた。

「みんなに見られてるみたいで……」

「窓、曇ってる。見えない」

「……見えてなくても」

「俺しか見てない」

その言葉に、息が止まった。

「俺しかいないから、声を抑えなくていい」

「……はあ……っ」

彼の指が深くなるたびに、奥のほうが彼を引き込もうとするのがわかった。満たされていく感覚と、それでもまだ足りないという感覚が、同時に込み上げてくる。

「……もっと」

「もっと?」

「……うん」

彼がゆっくりと腰を寄せた。

狭い車内で、私たちは互いをひらいていった。

入り口がゆっくりと押し広げられる感覚に、全身がびくりと震えた。でもそれは痛みではなく、知らなかった場所に触れられる驚きだった。

「……っ」

「無理はないか」

「……うん。きて」

彼が動き始めると、奥のほうから甘い痺れが広がっていく。波のように、寄せては引き、また寄せてくる。

「はあ……んっ……」

声を押さえようとしたけれど、うまくできなかった。

「隠すな」

低い声が耳元で落ちた。

「聞きたい」

「……っ、ん……あ」

もう隠せなかった。

彼が深く動くたびに、頭の奥から甘い霧がかかってくる。自分がどんな声を出しているか、もうわからなかった。わかっているのは、彼の熱さと、奥まで満たされていく感覚と──それがひどく愛おしいということだけだった。

「……あ、あっ……」

「……可愛い」

低く囁いた彼の声に、私は最後の力が溶けた。

頭の芯まで甘く痺れていく。全身がぶるりと震えた後、長い余韻の波に静かに沈んでいった。

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揺れる車内に残る、確かなぬくもり

雨は、まだ降り続けている。

サービスエリアの駐車場に停まったトラックの中で、私たちはしばらくのあいだ、ただそうしていた。彼の腕の中、彼の心臓の音を聞きながら、私は少しずつ呼吸を整えた。

彼がこの街を離れることは変わらない。遠距離になること、これから先の不安も、全部わかっている。

でも今夜、一年半分の「言えなかった気持ち」が、やっと言葉になった。

「……眠くなってきた」

「寝ていいぞ」

「もったいない気がする」

「何が」

「この時間が」

彼は少し笑って、私の頭を引き寄せた。

「じゃあ覚えておけ」

目を閉じると、彼の体温と雨音と、今夜の記憶が重なって押し寄せてきた。意識が遠のく直前、私はぼんやりと思った。

金曜日が、また楽しみになった。

次に会えるのがいつか、まだわからない。でも今夜から、「友達」という言葉はもう使わなくていい。

彼の腕の中で、静かに目を閉じた。雨音と、確かな鼓動だけが、揺れる夜に満ちていた。

この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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作者より月森 潤

月森 潤

金曜日が、ちょっと怖くなることってありますか。 好きな人に会える日なのに、気持ちが大きくなりすぎて、うまく笑える自信がなくなってしまうあの感じ。「友達だから」と言い聞かせてきた一年半に、この物語を詰め込みました。 去年の梅雨の冷やし中華、来られなかった金曜日の手持ち無沙汰、カウンター越しに差し出された少し苦いコーヒー──そんな些細なことばかりを覚えているのは、たぶんそういうことです。 雨の夜という密室を舞台に選んだのは、閉じた空間でしか零れない言葉があると思ったからです。離れるとわかっているからこそ、積み重ねてきた時間が一度に溢れ出す──この「零れる鼓動」を、読んでいただいた方に感じてもらえたなら嬉しいです。 あなたにも、金曜日が楽しみになる夜が来ることを願っています。

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