地中海の出張先に届いた302号室からの誘い

読み上げ
0:00

三年間の、触れられなかった距離

廊下の空気に、潮の香りが混じっていた。バルコニーから吹き込む地中海の風が、この階全体に漂っているのだろう。

菜月は302号室の扉の前で、立ち止まった。

三年。川本隆大課長の部下になって、ちょうどそれだけが経っていた。

入社初日、企画部の会議室で初めて見た横顔が、今もはっきりと目に浮かぶ。難しいクライアントの要求をノート一枚で整理し、一切の感情を交えず淡々と言葉を並べるその人を、菜月は「この人に認められたい」と思った。それが恋心だと気づくのは、ずっと後のことだった。

厳格な人だった。企画書を三度突き返されたこともあったし、会議室で叱られ、廊下で泣いたことも。それでも、彼は一度も部下の手柄を横取りしなかった。「この案は朝倉が考えました」と、上役の前でさらりと言ってのける人だった。飲み会の翌朝には「遅くまですまなかった、今日は早退でいい」と短くメッセージが届いた。

目に見えない小さな配慮が、静かに積み重なっていた。

半年前、プロジェクトの締め切り前夜にオフィスで二人きりになったとき、彼は黙って自分の分と一緒にコーヒーを持ってきてくれた。差し出された手の指が細くて長いことに、そのとき初めて気づいた。無意識に見つめていたら「どうかした」と問われ、慌てて目を逸らした。あの夜から、彼のことを考えてしまう時間が増えた。

そして、この出張だ。

商談が想定外に早く片づき、帰国便まで三日の余裕ができた。川本は「自由にしていい」と言い残して、別のホテルへ移った。なのに昨夜、日付が変わる頃にメッセージが届いた。

『今、一人?』

返信を打つのに、ずいぶん時間がかかった。川本からの折り返しは、一瞬だった。

『来るか、302。』

扉を叩くまでに、廊下で三回、深呼吸をした。

記事のイメージ画像

甘い香りに溶ける、本当の気持ち

「待ってたよ」

ドアが開いた瞬間に放たれた言葉が、菜月の全身を貫いた。待っていた。この人が、自分を、三年間、何でもないふりをして隣に立っていた自分を。

「入って」

室内は間接照明だけで照らされており、ベッドサイドテーブルには小さな白い箱が置いてあった。川本がそこへ歩み寄り、蓋を開けた。

「よかったら、これ」

テーブルの上には、細長いボトルが置いてあった。ラベルに見慣れない言語が印刷されており、瓶の中で琥珀色の液体が静かに揺れていた。

「……何ですか、これ」

「港の土産物屋で見つけた蒸留酒だ。甘くて飲みやすいらしい」

川本がグラスを二つ取り出し、静かに注いだ。差し出されたグラスを受け取ると、熟した果物のような甘い香りがふわりと立ち上る。一口含むと、やわらかな熱が喉から胸へとひろがっていく。それまでずっと張り続けていた緊張が、糸を切ったように解けていく。

川本も静かに口をつけ、「どう?」と尋ねた。

川本の声が、いつもより低い。仕事中の声と違う。菜月だけに向けられた、柔らかい声。

「……あたたかいです」

ふわっとする。でも不快じゃない。むしろ安らかで、それでいて体の奥から何かを求める気持ちがじわじわとにじみ出てくる。

川本が一歩、静かに近づいた。菜月の手からグラスをそっと受け取り、テーブルへ戻した。間近に迫ってきた目は、会議室でいつも見ていたものと変わらないはずなのに、全然違う光をたたえていた。

「……菜月」

初めて、名前だけで呼ばれた。苗字じゃなく、名で。

それだけで、目の奥が熱くなる。

唇が重なった瞬間、甘い香りが二人の間を流れた。最初は問いかけるように触れるだけだったのが、やがて彼女の答えを確かめるようにゆっくりと深くなった。川本の腕が背中に回り、引き寄せられるまま菜月は目を閉じた。

「好きだった」

唇が離れた瞬間、彼がぽつりとこぼした。

「ずっと、か?」と問い返した声が、自分のものとは思えないくらい静かだった。

「……入社式の日から」

それを聞いた瞬間、積み重ねてきた何かが一度に解けた。胸がいっぱいで、声にならない。でもそれで十分だった。菜月は彼の胸元に顔を埋め、しばらく言葉なく体温だけを感じていた。

いつしか、二人の距離が、静かになくなっていく。川本の腕が腰へと移り、導かれながら菜月は彼の首に腕を絡めた。体温が交わるたびに甘い香りが呼吸と混ざり、心と体の境界が曖昧になっていく。仕事中は絶対に見せてくれなかった彼の優しい表情が、暗い部屋の中でだけ顔に滲んでいた。

菜月は彼の体温を感じながら、「好きです」と、初めて声に出して言った。

川本の唇が、額に落ちてきた。頬に。耳の下に。キスというより、何かを丁寧に確かめるような触れ方だった。

「緊張してる?」

低く問われて、菜月は小さく笑った。「してます」

「俺も」

予想外の言葉に、思わず顔を上げた。川本は目を細めて、菜月の髪をひとすじ耳の後ろへかけた。「だから、ゆっくりでいい」

言葉の意味を飲み込む前に、腰を引き寄せる腕の力が静かに増した。唇が重なり、今度はそのまま離れなかった。その香りが呼吸のたびに混ざり合い、意識が少しずつ溶けていく。

川本の手が背中を辿るとき、指がひとつひとつの骨の形を確かめるように動いた。仕事中、あれほど整然と書類を捌いていた同じ手が、今夜は菜月だけのものになっていた。

「川本さん」

「……隆大でいい」

ベッドに沈み込む瞬間、菜月は目を閉じた。体の重さより先に、体温を感じた。三年間、隣に立っていてさえ届かなかった熱が、今はすべてこちら側にある。

胸に耳を押し当てたら、彼の心臓の音が聞こえた。速い。自分と同じくらい。

それだけで、もう怖くなかった。

彼は急かさなかった。ゆっくりと時間をかけて、菜月の緊張をひとつずつほぐしていった。手のひらが腰を滑り、膝の裏へ回り込む。触れるたびに場所が変わり、熱が移っていく。

やがて川本の指が、いちばん深いところに触れた瞬間、菜月は思わず彼の肩へ顔を埋めた。

「……力、抜いて」

言われた瞬間、自分がずっと息を止めていたと気づいた。ゆっくり吸って、吐く。すると体の奥にあった強張りが少しずつほどけて、代わりにじわりとした疼きが広がっていく。

つながった瞬間、頭の奥が白くなった。

「……菜月」と、川本が動きを止めて呼んだ。額に額を寄せたまま、息が混ざり合うほどの距離で、彼の目が静かにこちらを見ていた。

「苦しいか?」

「……違います」

首を横に振ると、彼はほんのわずかに口角を上げた。仕事中には一度も見たことがない顔だった。

ゆっくりと波が来るたびに、菜月は彼の背に腕を回した。爪を立てたくなるほどの熱さが押し寄せて、その都度、声が零れた。川本はひとつひとつの声に応えるように、深くなった。

「……隆大さん」

気づいたら、名で呼んでいた。

蒸留酒の香りと、かすかな潮の香りと、彼の体温だけがある世界で、菜月はずっと自分の名前を呼ばれ続けた。

記事のイメージ画像

夜明けに灯る、二人だけの時間

窓の外が白みはじめる頃、二人はベッドに並んで横たわっていた。

川本の腕が菜月の肩を引き寄せている。さっきまであれほど熱かった体が、今はただ心地よく重かった。海風が窓の隙間からひんやりと忍び込んでくる。

菜月は天井を見上げながら、入社式の日、と思った。緊張で頭が真っ白だったあの朝、企画部の会議室で、初めてこの人の横顔を見た。なのにこの人はあの頃から、ずっと、隣にいながら黙っていた。

「帰ったら」と川本が言いかけて、止まった。

「帰ったら?」

「……隣に、いさせてくれ」

菜月は少し間を置いてから、口を開いた。

「三年間、何でもなかったふりをして隣に立ってたくせに」

川本が黙った。

「……それが、正確か」

「正確です」

今度は川本が低く笑った。仕事中には一度も聞いたことがない笑い方だった。

「朝倉は、記憶がいいな」

「……三年分、ちゃんと覚えてます」

腕の力がほんの少し強くなった。菜月はそのまま目を閉じた。

窓の向こうで、地中海がゆるやかに黄金色に染まっていく。潮の香りがまたひとつ波に乗って流れ込み、甘い香りの名残と混ざり合った。三年間の記憶と昨夜の熱が、同じ場所にゆっくりと収まっていくようだった。

あの夜、扉を叩くまでに廊下で三回深呼吸をした。あの三回が、ここへ連れてきてくれた。

それがこれからどんな形をとるのかは、まだわからない。でも今この瞬間、彼の腕の重さがここにある、それだけが、確かなことだった。

菜月はそっと、彼の胸に手のひらを置いた。

記事のイメージ画像

この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

おすすめアイテム【PR】

※アフィリエイトリンクを含みます。

作者より月森 潤

月森 潤

この物語でいちばん大切にしたかったのは、「三年分の重さ」です。 ふたりの間にあった時間は、劇的な出来事の連続ではありません。締め切り前夜に黙って差し出されたコーヒー、会議で名前を出してもらえた小さな驚き、横顔を目で追ってしまった瞬間のはずかしさ、そういう言葉にならない積み重ねが、「好き」になる過程だと思って書きました。冒頭で菜月の三年間を具体的に描いたのは、その重さが読者に伝わってほしかったからです。 現地で見つけたリキュールは、ふたりの「本音をうまく言えない」という障壁を取り除く仕掛けとして使っています。甘い香りと熱が体にひろがることで菜月は肩の力を抜けた。その状態で受け取る「入社式の日から」という告白だから、あの言葉が響く。告白を情熱の渦の中ではなく、まだ何も始まる前の静かな場面に置いたのは、感情の輪郭をはっきりさせたかったためです。 「隣に、いさせてくれ」という川本の台詞は、彼なりの誠実な言い方です。軽々しく甘い言葉を言わない人が、それでも離したくないとただひと言で言っている、そのニュアンスが伝わったならうれしいです。 タイトルの「潮風が運ぶ、隠された熱の記憶」は、異国の海と秘めてきた感情が重なるイメージから来ています。三年間、胸にしまってきた熱がようやく動き出した夜の物語として楽しんでいただけたなら幸いです。

関連する官能小説

厩舎の影に溶ける真珠色

厩舎に響く聞き覚えのある嘶き。十四歳から乗馬を教わった「先生」の隼人と十年ぶりに再会した芽衣は、彼が今では同じ会社の新人として現れたことに戸惑う。老いた愛馬の預託料を十年間払い続け、色褪せたミサンガを袖口に隠していたと知った夜、積み重ねてきた時間の重みがようやく形を持って動き出す。幼なじみ再会ロマンス。

続きを読む →

五月の夕立が匂う夜に重なる体温

郊外の小さなバーで半年間、名前も呼ばずグラスを傾け続けた常連客。五月の夕立で電車が止まった夜、彼女は看板を下ろし、彼を自宅へ招き入れる。畳に効き始めた床暖房と紅茶の湯気の中、カウンター越しに保ってきた距離がゆっくりと溶けていく。半年分の沈黙の先にある、雨上がりの初夜。

続きを読む →

想いがほどける吹雪の夜

同じ部署で三年、赤字だらけの企画書も、役員会で酷評された夜の缶コーヒーも、深夜まで並んで練った修正案も、彼が手放せずにいた擦り切れた赤ペンも、すべて積み重ねてきた。友達と呼ぶには近すぎて、恋人と呼ぶには一線を引きすぎていた二人が、社員研修で訪れた山小屋で猛吹雪に閉じ込められる。「その呼び方、そろそろやめてほしい」。暖炉の火のそばでこぼれたひとことが、三年分の距離を溶かしていく一夜。

続きを読む →

関連するSEXコラム

一覧を見る →
本作品は成人向けフィクションです。18歳未満の方の閲覧は禁止されています。