犬猫と呼ばれた一年半が老舗旅館でほどける

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湯煙に溶ける、確執の果て

彼女が廣瀬班に配属されたのは、入社二年目の春だった。

班長の廣瀬拓人は、社内で「氷の廣瀬」と呼ばれる男だ。三十二歳。どんな案件も締め切り通りに完遂させ、感情論は一切受け付けない。指示は的確で、無駄口は叩かない。

彼女が最初に呼び出されたのは、配属三日目の夜だった。

「このプレゼン資料、作り直してください」

夜の十一時。徹夜で仕上げた資料だった。

「内容よりも見栄えを整えることに意識が向いている。評価されることより、まず考えることです」

悔しかった。腹が立った。「分かりました」と答えながら、言い返せなかった言葉が喉の奥に詰まっていた。

でも、三日後に作り直した資料を廣瀬は一言「いい」と言って承認した。その二文字が、なぜか頭から離れなかった。

それから一年半。二人は社内で「犬と猫」と呼ばれるようになった。彼女の提案を廣瀬がばっさり切る。廣瀬の方針に彼女が噛みつく。プレゼン前夜に深夜まで議論になる。それでも大型案件を三件やり遂げた。

彼女だけが知っていることがある。廣瀬が間違えたことを、一度も見たことがないこと。そして廣瀬が、彼女の資料を真っ先に開いてじっくり読んでいること。

(だから、悔しいんだ。)

向こうがいつも先にいる。それが、たまらなかった。

深夜十二時を過ぎた頃、彼女は画面から顔を上げた。スマホの路線アプリが「本日の終電は終了しました」と表示している。向かいのデスクで廣瀬は書類を捲っていた。

「廣瀬さん、終電……」 「逃した」

振り向きもせずに言った。彼女は今更ながら、廣瀬が何時間も前から終電を逃すことに気づいていたのかと思うと、何も言えなくなった。

「社近に宿、知ってるか」 「私は知らないです」 「一軒だけ知ってる」

それだけ言って、廣瀬は書類を鞄に仕舞った。まるで最初から決まっていたように。

宿は駅から三分の老舗温泉旅館だった。廣瀬の父親が贔屓にしていたらしく、名前を出しただけでフロントが丁寧に頭を下げた。素泊まりでいいと言う彼女を横目に、廣瀬は「夕食を用意できますか」とフロントに告げた。

「夕食はいいですよ」 「朝から何も食べてないだろう」

彼女は黙った。弁当を食べそびれたことを、廣瀬がなぜ知っているのか。聞けなかった。

畳の部屋で熱燗が来るころには、彼女の肩の強張りはずいぶん解けていた。廣瀬は珍しく、仕事以外の話をした。父親とよく来ていた頃の話。学生時代に続けていた剣道の話。声の低さとは裏腹に、言葉だけがゆっくりとほぐれるように出てきた。

「廣瀬さんって、子供のころからああいう感じだったんですか」 「ああいう感じ、というのは」 「全部正しいのが当たり前みたいな感じ」

廣瀬がわずかに黙った。それから、かすかに口元が動いた。

「そんなことはない」

彼女は初めて、廣瀬が照れたような顔をするのを見た。

気づけば熱燗が二本空いていた。フロントから「貸切風呂、まだお使いになりますか」と案内が来た。廣瀬が「いただきます」と答えるのを、彼女は止める言葉が出なかった。

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湯気の中で、本音が滲む

ヒノキの香りが濃い貸切風呂は、二人分には広すぎた。

先に入っていた廣瀬の横に、向かいではなく、横に、彼女は座った。なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。湯気がゆっくりと視界を曇らせる。

「廣瀬さん」 「何だ」 「……なんで最初から、私にあんなに厳しかったんですか」

一年半、聞けなかった言葉が口をついて出た。

廣瀬は少し間を置いた。

「甘えがあったから」 「……私が?」 「見栄えを整えれば評価される、と思っていた。人の目ばかり気にして、自分の頭で考えることを後回しにしていた」

彼女は反論しようとして、できなかった。正確すぎた。

「じゃあ、今は」 「今は違う」 「……なんで分かるんですか」 「見てるから」

湯気の中で、廣瀬の横顔がぼんやりと滲む。いつもの冷徹な表情が、今夜は少し柔らかい。その顔を見ていると、胸の奥で何かがじんわりと解けていく感覚があった。

いつの間にか、肩が触れる距離になっていた。廣瀬が動いたのか、彼女が動いたのか、もう分からない。

「……廣瀬さん」 「何だ」 「私、廣瀬さんのことを嫌いなわけじゃなかったです」 「分かってたよ」

その答えに、彼女は目を丸くした。

「知って、たんですか」 「だから、厳しくした」

頭の中で何かがゆっくりと繋がっていく。一年半分の指摘、議論、叱責、その全部の意味が、今夜初めて別の顔を見せた気がした。

廣瀬の手が、湯の中で彼女の手を掴んだ。

「嫌なら、言え」

嫌じゃない、とは、声にできなかった。でも手を引かなかった。

廣瀬が彼女の方を向いた。湯気に滲んだ目が、真っすぐに彼女を見ている。いつも通りの真剣な目だった。でも今夜はその奥に、別の何かが宿っていた。

「……ずっと、うるさかった」 「私が?」 「俺が、だ」

その言葉の意味を飲み込む間もなく、廣瀬の唇が彼女の唇に触れた。

熱い。温泉の湯よりも、ずっと。

目を閉じて、ただ廣瀬の温度を感じた。一年半分の距離が、ゆっくりと溶けていく。

重なった唇が離れると、廣瀬が彼女の額に自分の額を合わせた。息が互いに混ざる距離で、静かに、お互いの気配だけを感じていた。

「好きだ、と早く言えばよかった」

低い声が、鼓膜の奥まで響く。

彼女の目に、じわりと熱いものが込み上げた。

「言ってくれれば、もっと早く気づけたのに」 「俺もそう思ってる」

廣瀬がゆっくりと彼女を引き寄せ、腕の中に包んだ。温泉の湯と、廣瀬の温度と、一年半分の積み重なったものが、全部、胸の中でゆるやかに溶けていく。

彼女は彼の肩に顔を埋めて、静かに目を閉じた。

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夜が、深くなる

部屋に戻ると、行灯の薄い灯りだけが揺れていた。

廣瀬は彼女の手を引き、部屋に入るなりそっと押し倒した。畳の上に背が落ちる感触。廣瀬の手が浴衣の合わせをはだけると、その視線が真っすぐに自分へ向いているのが分かった。

「……廣瀬、さん」

「名前で、呼んでいいか」

低い声に、胸の奥が締め付けられた。彼女は小さく頷く。

「拓人、さん」

声に出すと、現実になっていく気がした。一年半で一度も呼んだことのなかった名前が、今夜だけのものになっていく。

廣瀬、拓人が、額に唇を落とした。こめかみに。頬に。顎の先に。一つ一つが確かめるように丁寧で、焦らすように、じれったかった。

「……っ、拓人さん」

もっと、と言いたくなるのをこらえると、彼の唇がやっと彼女の唇を深く捉えた。噛むように、溶かすように。彼女の息が乱れ、自然と目が閉じる。

浴衣の帯が解かれる感触。廣瀬の手のひらが、肩から腰の曲線をゆっくりとなぞる。その温度は温泉の湯とは違う、もっと確かな、人の熱さだ。

「……見るな、です」

「見る」

きっぱりと言って、廣瀬が彼女の視線を受け止めた。照れ隠しで目を逸らそうとした彼女の顎を、指先で持ち上げる。言葉はなかった。でも、その目がもっと見せろと言っていた。

胸の奥が、熱く疼く。

一年半、この男に見られてきた。厳しい目で、仕事の粗を見つけるように。でも今夜だけは、違う目で見られていることが分かった。

廣瀬の唇が首筋に触れると、彼女は思わず小さく声を漏らした。

「ん……っ」

「ここが弱いのか」

「……っ、茶化さないで」

「茶化してない。覚えておきたいから聞いた」

その言葉に、胸が満ちる。覚えておく、という言葉の重さ。今夜だけじゃないと言っているみたいで。

廣瀬は急がなかった。焦らすように、でも確かに、彼女の体の一つ一つに触れた。肩に口づけが落ちる。鎖骨に。胸の中心に。

「あ……」

名前が出てこない。息だけが出てくる。

下腹部に、じわりと熱が溜まっていく。廣瀬の手が太ももの内側を辿るたびに、脚の力が抜けそうになった。

「……いやだったら言え」

「……いやじゃない、です」

「じゃあ、もっと声を出せ」

命令のような囁きが、なぜかひどく甘く聞こえた。

廣瀬がゆっくりと彼女を覆う。重さと温もりが、全身に広がる。彼女は彼の背中に腕を回して、ただしがみついた。

「……拓人、さん」

「ここにいる」

名前を呼ぶと、すぐに返事が来る。一年半で初めて知った、廣瀬の柔らかな声。

やがて全ての隙間が埋まるように、二人が一つになった瞬間、彼女は息をのんだ。

「っ……」

「苦しくないか」

彼女は答える代わりに、廣瀬の背中をぎゅっと掴んだ。大丈夫じゃなかったら、こんなに胸がいっぱいになるわけがない。

拓人が、ゆっくりと動き始める。

波のような、静かな揺れ。その一つ一つが、胸の奥まで届いてくる感じがした。快楽というより、温もりが満ちていく感覚。ずっと張り詰めていたものが、ゆっくりとほどけていく。

「好きだ」

動きの中で、彼がまた言った。

今夜何度目かの告白を受けながら、彼女は目を潤ませた。一年半ぶつかり続けてきた人が、こんなに優しい声を持っていたなんて。

「私も……」

「うん」

「私も、好きです。ずっと」

廣瀬が少し動きを止めて、額を彼女の額に押し当てた。吐息が交わる。その静けさの中で、彼女は確かに感じた、確執の裏に、ずっと積み重なっていたものの重さを。

やがて熱が頂点に近づくにつれ、彼女は廣瀬の名前を繰り返した。廣瀬は彼女の全てを受け止めるように、最後まで丁寧だった。

全身の力が抜けて、彼女は廣瀬の胸に顔を埋めた。心臓の鼓動が、胸板の奥で刻まれている。

しばらく、何も言わなかった。何も語らずとも、伝わるものがあった。

余熱と、本音と

旅館の縁側に並んで座ると、庭の砂利が月光を反射して白く光っていた。

浴衣の袖が触れる距離で、廣瀬は静かに庭を眺めていた。

「明日から……また厳しくするんですか」 「当然だ」

やっぱり、と彼女は苦く笑った。でも今夜は、それが嫌じゃない。

「でも」と廣瀬が続けた。「厳しくするのは、お前に対してだけだ」 「……それって、特別扱いですか」 「どう受け取るかは、お前次第だ」

彼女は横を見上げた。廣瀬が、珍しく視線を逸らした。それを見て、彼女は小さく笑った、一年半で初めて、廣瀬の前で力を抜いて笑えた気がした。

廣瀬の手が、彼女の手の上にそっと重なった。繋ぐわけでもなく、握るわけでもなく、ただ触れる。

それだけで、胸が満ちた。

明日になれば二人はまた、社内で「犬と猫」に戻るのだろう。廣瀬は相変わらず厳しく、彼女は相変わらず噛みつく。でも今夜知ったことがある、その確執の裏側に、ずっと積み重なっていた温度があったことを。

湯煙の向こうで、二人だけの一夜が静かに更けていった。

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この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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作者より月森 潤

月森 潤

この物語を書くとき、一番大切にしたのは「一年半という時間」でした。初めて会った日から今夜まで、二人の間には口論も議論もぶつかり合いも。そして認め合っていた部分も、ずっと積み重なってきたはずです。廣瀬がなぜあんなに厳しかったのか。彼女がなぜ反発しながらも隣に居続けたのか。その答えが、湯煙の中でやっと言葉になる瞬間を書きたかった。 「見てるから」という廣瀬の一言は、この物語で一番書きたかった台詞かもしれません。仕事では一切甘えを許さない彼が、それだけは真っすぐに伝える、そのギャップが、彼女の心をほどく鍵になったと思います。 ライバルとして積み重ねてきた時間が、別の意味を持ち始める夜。二人の確執の裏にあった温度が、少しでも伝わっていたなら嬉しいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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