
埃と月光に隠したままの本音
書庫に積もる埃と、消せない距離
蛍光灯を落とした社内資料室には、日中の喧騒が届かない静けさが降りている。天井まで届く鋼鉄の棚には黄ばんだファイルが行儀よく並び、古い紙と埃の匂いが夜の空気に溶けていた。窓の外には夜霧が街灯の光を滲ませ、細く開いたブラインドの隙間から月明かりが一筋、床に落ちている。呼び出しのメールには「大事な話がある。八時、資料室で」とだけ書かれていた。息子を実家に預けてまで残業する理由を、彼女は誰にも説明していない。
三年前、異動先から戻ってきた彼と廊下で再会したとき、彼女は言葉より先に目を逸らした。かつて付き合っていたことも、その後互いに別の相手と結婚し、それぞれ離婚を経験したことも、社内の誰ひとり知らない。それでも彼は、毎週火曜の残業のたび、彼女の机に温かい緑茶を無言で置いていくようになった。
彼女の息子が乳歯を一本失くしたと零した雑談を、彼は半年経っても覚えていて、次の日にはさりげなく子供向けのキャラクター飴を渡してきたこともあれば、去年の忘年会の帰り、酔って足元がふらついた彼女を送るタクシーの中で、彼が何かを言いかけて口をつぐんだ夜もあった。あのとき窓の外を見つめていた彼の横顔だけが、なぜか消えずに残っている。
「待たせたか」
低い声とともに、彼が奥の書棚の陰から歩み出てくる。仕立てのいいスーツの上着はすでに脱ぎ、シャツの袖を捲り上げていた。彼女は小さく首を振り、握りしめていた鞄の持ち手を離す。
「話って、なに」
「その前に、少し座って」
彼が示したのは、資料整理用の大きな木製デスクだった。彼女が天板の端に浅く腰掛けると、冷たい木の感触が太ももに伝わってくる。彼はゆっくりと距離を詰め、彼女の指先に触れた。書類仕事で荒れた指の関節を、確かめるように親指の腹でなぞる。
「その指、まだ荒れてるんだな。ハンドクリーム、変えたほうがいい」
「そんなこと、覚えてる暇があったの」
「お前に関することだけは、忘れたことがない」
彼の手が、彼女の頬から髪へと滑り、耳にかかった後れ毛をそっと払う。三年間、意識して避けてきた距離が、その仕草ひとつであっさり近づいていくのが分かった。

資料棚の陰で、絡み合う吐息
「昔から、指先の器用さだけは変わらないな」
懐かしむような声に、彼女は思わず笑ってしまう。書類を扱う彼女の指を、彼はいつもそうやってからかっていた。
「まだ、大事な話、聞いてない」
「聞いてほしいのは、これからだ」
彼の指が顎にかかり、上向かせる。唇が重なると、久しぶりの感触に彼女の肩がびくりと震えた。舌が絡み合うたび、離れていた時間が音を立てて溶けていくのが分かる。
彼はブラウスのボタンを一つずつ外しながら、掠れた声で彼女の名前を呼んだ。開いていく衿元に外気が触れるたび、その背が小さく浮く。スカートの裾にも手がかかり、膝から太ももへとめくり上げていく途中、彼は一度だけ動きを止め、彼女の目を覗き込んだ。
「途中でやめてほしくなったら、遠慮なく言え」
「言わない……ずっと、こうなればいいと思ってた」
正直な言葉が零れた瞬間、彼の手が下着の上から柔らかな場所を撫でる。布越しの刺激に、彼女は小さく息を詰めた。彼は膝をつき、太ももの内側に唇を這わせながら、下着をゆっくりとずらしていく。露わになった場所に吐息がかかると、彼女は思わずデスクの端を握りしめた。
「あ……っ、そこ」
「もう、こんなに濡れてる」
彼が囁きながら、その舌でそこを捉える。ぬめった感触が敏感な粒を撫でるたび、彼女の腰が小さく跳ねた。彼は指を一本、浅く差し入れた。すでに潤っていたそこは、抵抗なくそれを飲み込んでいった。舌と指が同時に動くたび、じゅわりと湿った音が静かな書庫に響く。
「んっ、あっ……そんな、一緒になんて」
指が二本に増え、緩急をつけて奥を探る。膝が震え、彼女は彼の頭を挟み込むように太腿に力を込めた。込み上げる声を、唇を噛んで押し殺す。彼はゆっくりと身体を起こし、彼女の額に自分の額を合わせる。
「そっちも、脱がせてくれるか」

月明かりの下、満ちていく熱
彼女は震える指で、彼のシャツのボタンとベルトを一つずつ外していく。互いの衣服が肌を離れ、床に滑り落ちる感触に、束の間の沈黙が満ちた。
「入れても、いいか」
尋ねる彼の声は、余裕のなさを隠しきれていなかった。彼女は小さく頷き、彼の首に腕を回す。デスクの端に浅く座り直した彼女の腰を、彼が両手で支えた。
先端が入り口にあてがわれ、少しずつ押し広げていく。久しぶりの圧迫感に、彼女は息を止めた。
「んっ……ぁ」
「力、抜いて」
低く囁きながら、彼はじわりと腰を沈めていく。奥まで満たされた瞬間、彼女は彼の背に爪を立てた。彼が動き始めると、最初は探るような緩やかなリズムだったのが、次第に深さを増していく。
「あ、あっ……そこ」
「昔から、ここが好きだったろ」
覚えていたのかと問う余裕もないほど、彼の動きが正確に彼女の弱い場所を突いてくる。汗ばんだ肌が触れ合うたび、埃っぽい空気に二人の熱が混じっていく。窓から差し込む月明かりが、繋がったまま揺れる二つの影を壁に描き出していた。
「もう、少しで……」
「一緒に、いこう」
彼が最後に大きく腰を打ちつけると、頭の芯が甘く痺れ、彼女は声にならない声を漏らした。同時に彼も低く息を詰め、その内で熱を解き放つ。じんわりと広がる温もりに包まれながら、彼女は彼の肩に額を預けた。

埃が消えても、消えない温もり
呼吸が落ち着くまで、二人はそのまま抱き合っていた。彼は彼女の額に浮いた汗を指先で拭い、乱れた髪をそっと耳にかけてやる。
「大事な話、まだだったな」
彼の声に、彼女は身体を離して顔を見上げた。
「大阪支店に、異動の内示が出た。二か月後からだ」
思わず息を呑む彼女に、彼は続けた。
「一人で行くつもりはない。息子さんごと、来てほしい」
「でも……あの子には、あの子の生活がある。急に転校なんて」
「嫌なら、俺が単身赴任して、月に二回でも三回でも帰ってくる。どっちでもいい。ただ、この先もずっと『友達でも恋人でもない何か』のままでいるのは、もう俺が耐えられない」
彼女は言葉を探したが、代わりに小さな笑いがこみ上げてきた。
「昔から、肝心なことは全部、後回しにする人だったのに」
「悪かった。だから、もう後回しにしない」
「大阪の件は、少し考えさせて。あの子ともちゃんと話さないと」
「それでいい。急がなくていい。ただ、もう逃げない。それだけは約束する」
彼女は彼を見上げたまま、ふと思い出したように尋ねた。
「去年の忘年会の帰り、タクシーの中で何か言いかけてたでしょう。あれ、何だったの」
彼は少し困ったようににこりと笑った。
「『一緒に住まないか』って、言おうとしてた。お前が眠そうにあくびしてたから、言えなかった」
「意気地なし。一年も待たせて」
「その分、これから取り返す」
彼の胸に頬を預けると、規則正しい鼓動が耳に届いた。棚に並んだ古いファイルの間を、月明かりが静かに通り抜けていく。大阪行きの答えはまだ出ていない。それでも、彼の腕の中で、彼女はもう目を逸らさなかった。
この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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作者より月森 潤

今回は「言葉にしないまま積み重なる好意」を書きたくて、告白のセリフではなく、火曜の温かい緑茶やハンドクリームの話といった小さな習慣に二人の年月を託しました。バツイチ同士、それぞれ違う相手と結ばれて離婚を経験した二人が、名前をつけないまま隣にい続けた時間を、資料室という誰にも見つからない場所に閉じ込めています。 去年の忘年会のタクシーで言いかけてやめた一言を、あえて夜の終わりまで伏せておくことで、彼の不器用さと、それでも待ち続けた彼女の強さを対比させたいと思いました。子供のいる暮らしを抱えながら、それでも一歩を選ぼうとする彼女の迷いも、正直に残しています。 最後まで読んでいただきありがとうございました。
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