湯気に曇る半個室でほどける熱

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名前も要らない、湯気の向こうの角部屋

窓ガラスには湯気の層が厚く張り付き、外の明かりを滲んだ水玉模様に溶かしている。個室と呼ぶには心もとない、薄い布の仕切り一枚だけの角部屋。予約の電話をかけるのはいつも彼女の役目で、告げる言葉も決まっていた。「いつもの、奥の席で」。店員はもう名前を聞かずに、この半個室へ通してくれる。

中央のコンロで、出汁がとろりと波打っている。彼女は椅子に座るなり靴を脱ぎ捨てた。この癖に、彼はもう驚かない。看護師の仕事を終えたばかりの足は、一日中立ち詰めで冷え切っている。薄桃色のスクラブの裾から覗く白い足先が、彼の脛に触れる。触れた瞬間、そこだけ体温が集まるのを彼は知っていた。

「今日、患者さんに怒られちゃった」

彼女はそう言いながら、彼の隣に体を寄せる。愚痴をこぼすときほど距離を詰めてくる癖にも、彼は覚えがあった。胸ポケットには、彼が誕生日に贈ったボールペンが挿さったままだった。安物ではなかったのに、彼女は仕事用にと言って一度も家に持ち帰らない。カルテを書くたび彼のことを思い出したい、と以前ぽつりと漏らしたのを、彼はまだ覚えている。

そんな話が一段落すると、彼女は椅子から腰を上げ、彼の膝の間に膝をついた。椅子の座面は低く設定されていて、こうして向き合うと視線がちょうど重なる高さになる。

指先は彼の膝から、太ももの付け根へと這い上がっていく。丁寧に、しかし迷いのない動きだった。何度も繰り返してきた手順を知っている指だ。彼の腿の筋肉が痙攣のように震えると、彼女はその震えごと拾い上げるように顔を伏せ、唇を寄せた。俯いた拍子にうなじが覗く。左側だけにある小さなほくろは、初めてここに連れてきた夜、キスのついでに見つけた場所だった。それからいつも、彼女が屈み込むたびに彼の目はそこを探してしまう。

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覚えている輪郭を、舌先でなぞる

スクラブの上から昂りを確かめた彼女の手は、ためらいなくベルトに伸びる。何度も外してきた金具は、指先だけで難なく開いた。ファスナーの下りる金属音に、彼はわずかに腰を浮かせた。

あらわになった彼のものは、もう芯まで硬くなっている。彼女はその形を、目より先に指の腹で覚えていた。青く浮いた血管の位置も、亀頭の際にある小さな窪みも、これまで数えきれないほど確かめてきた輪郭だ。彼女は膝立ちのまま身を屈め、先端に唇を押し当てた。

「んっ……」

濡れた音を立てて、彼女の口が彼を包み込む。浅く含んでは引き、また深く迎え入れる。喉の奥まで沈めるたび、彼女の目尻がうっすらと潤んだ。彼の手が彼女の後頭部に触れ、癖のある髪をかき乱す。仕切りの向こうから食器のふれ合う音、他の客の笑い声が響いてくる。声を出せない分、彼女の舌はいつもより饒舌に動いた。

唾液が糸を引いて彼の太腿に垂れる。彼女はそれを追うように顔を伏せ、根元まで頬張った。喉の奥で締まる感触に、彼の腰が小さく跳ねる。

「動いていいよ」

彼女がわずかに口を離し、掠れた声でそう言うと、彼は遠慮なく腰を進めた。粘膜が擦れ合う音と、彼女の喉が鳴る音が重なる。目に涙を滲ませながらも、彼女は逃げずに彼を受け止め続けた。

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薄布の向こうで抑えきれない、ふたりの声

彼が果てる寸前、彼女の口からそっと自身を引き抜いた。名残を惜しむように、彼は彼女の腕を引いて立たせると、顎をすくい上げて唇を重ねる。歯の裏まで舐め合うような深いキスに、彼女の膝が崩れかけた。

彼はその隙にスクラブの上衣のボタンを外し、合わせ目から手を滑り込ませた。下着の上から乳房の膨らみを揉み上げると、彼女の吐息が甘く上ずる。硬くなった先端を布越しにつまむと、彼女は小さく肩を震わせながら身をよじった。

彼の手は胸元から腹を伝い、ズボンの中へと下りていく。下着越しに触れた場所は、すでに染み込むほどの潤みを帯びていた。

「もう、こんなに」

指を差し入れると、彼女は仕切りの向こうを気にしながらも声を殺しきれない。蜜が指にまとわりつく感触を確かめながら、彼は浅い場所を円を描くようになぞった。彼女の膝が笑い、彼の腕に縋りついた。彼は彼女の腰を支えながら仕切りの布のそばまで導くと、下着ごとズボンを膝までずり下ろし、そのまま背を向けさせる。はだけたスクラブの裾が背に張り付き、白い腰が湯気の中に浮かび上がった。

先端をあてがい、ゆっくりと沈めていくと、彼女の背が大きく反った。何度重ねても、彼の先端が沈み込む瞬間だけは、彼女の呼吸を大きく乱れさせる。彼は彼女の腰を掴み、奥まで押し入れた。ぬちゅり、ぐちゅりと粘着質な音が、コンロの沸騰音に混じって響く。

「声、我慢して」

囁くと、彼女は口元を自分の手で覆いながら、こくこくと頷いた。腰を打ちつけるたび、彼女の背中が汗ばみ、震える。彼は彼女のうなじ、あのほくろに唇を寄せ、歯を立てた。彼女の内側が強く締まり、彼のものを奥へ奥へと引き込んでいく。

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湯気にほどけた後で、また次を約束する

肉が焼ける香ばしい匂いが、いつの間にか個室に満ちていた。網の上で放置された肉片が縮れ、脂が跳ねる音を立てている。彼の体が大きく震え、彼女の中に熱を放つ瞬間、彼女は声を出さないよう自分の手を強く噛んだ。

「ごめん、また、忘れてた」

彼が息を整えながら謝ると、彼女は小さく笑って肩をすくめた。避妊のことを忘れるのは、いつも決まって彼のほうだ。それでも彼女が本気で怒った試しはない。

ゆっくりと引き抜くと、白濁が内腿を伝って滴った。彼女はティッシュを取り、手早く身なりを整える。椅子に座り直した彼女の頬は、まだ上気したままだった。

「お肉、真っ黒になっちゃった」

彼女はコンロに視線を移し、すっかり縮れた肉片を箸でつまみ上げる。彼はその横顔を見つめながら、ふと思いついたように口を開いた。

「次は、俺が電話しとく。予約」

箸を止めた彼女が、意外そうに顔を上げる。それから目を細め、いつもの調子で笑った。

「じゃあ、奥の席で」

「わかってる」

彼はそう答えると、湯気で曇った窓ガラスに指先でそっと丸を描いた。まだ何も記されていない、次の約束のような跡だけが、そこにぼんやりと残った。

この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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作者より月森 潤

月森 潤

「いつもの、奥の席で」。そんな一言だけで通じ合う予約の合言葉から、二人がすでに積み重ねてきた時間の厚みを描きたくて書いた作品です。年数を数字で語るのではなく、彼女が椅子に座るなり靴を脱ぐ癖、うなじの左側だけにあるほくろの位置、仕事用に持ち歩く彼からのボールペン、迷いのない指の動き。そういった行動の端々に、これまでの繰り返しを埋め込むことを意識しました。 しゃぶしゃぶ店の半個室という舞台は、隣の個室との仕切りが薄い布一枚しかないという制約が肝でした。完全な個室ではなく、声を殺さなければならない緊張感が、二人の行為をより濃密にしていく。コンロの沸騰音や網の上で焼ける肉の匂いといった生活感のある描写を絶やさないことで、非日常の情事ではなく、二人の日常の延長線上にある夜として描けるよう心がけています。 ラストは大仰な愛の言葉ではなく、避妊を忘れる彼と、それを本気で怒らない彼女という、少し気の抜けたやり取りで締めくくりました。積み重ねてきた関係だからこそ許される緩さを、最後まで大切にしたつもりです。 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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