能楽師になった幼なじみが五年守った一言

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漆黒の舞台裏、彼が囁く真実の温度

能舞台の楽屋。天井から吊るされた照明器具の一部が剥げ落ちたまま、古い木製の壁は湿気を帯びた重く沈んだ匂いを漂わせている。畳の縁には長い年月をかけて刻まれた傷跡があり、廊下から差し込む夜の冷気が露出した首筋を静かに撫でていく。

演奏を終えた倉田翠がブラックドレスの背中のファスナーに手を伸ばしたとき、背後で扉が閉まり、鍵がかかる硬い「カチリ」という音がした。

鏡台越しに映ったその姿に、翠は動きを止めた。黒の紋付袴を纏った長身の男性、幼なじみの、望月春彦が立っていた。

舞台袖ですれ違ったとき、「終わったら話せないか」と言った彼の声がまだ耳の奥にあった。断る理由が見つからなくて、翠は小さくうなずいた。その後は鍵盤に向かいながら、ずっとそのことだけを考えていた。

「久しぶり、翠」

その声は、五年前と少しも変わっていなかった。

物心つく頃から、春彦は翠の隣の家に住んでいた。一緒に登下校し、学校帰りに駄菓子を買い食いし、夏の夜は縁側で花火を眺める、そんな日々が当然のように続くと思っていた。春彦が能楽の名家に生まれ、翠がその隣でピアノを弾く子どもとして育つ。二人がそばにいる未来が崩れたのは、高校二年の秋だった。

「ウィーンの音楽院に合格した。来春、留学する」

翠の口から出たその言葉を聞いたとき、春彦は何も言えなかった。好きだという気持ちには、とっくに気づいていたのに。「行かないで」の一言が、のど元で凍りついたまま溶けなかった。

卒業式を待たず、翠はウィーンへ発った。

それから五年。ピアニストとして頭角を現した翠が帰国し、今夜、京都の伝統芸能フェスティバルに「ピアノ×能楽のコラボ」演奏者として招かれていた。家を継いだ能楽師として舞台に立った春彦と、グランドピアノを弾く翠、今夜だけ、二人の音が客席に満ちていた。そして今、鍵のかかった楽屋に春彦がいる。

「……来てくれた」

翠は鏡台の椅子から立ち上がり、ドレスの背を押さえるように腕を交差させた。

「ロビーで待ってると思ってた」

「ここのほうが落ち着いて話せる」

春彦は一歩、こちらへ歩み寄ってきた。五年で少し顎の線が鋭くなり、目の奥に静かな光が宿っている。

「……お前の演奏、ずっと追ってた。去年のウィーンも、一昨年のプラハも。配信で見てた。帰国公演のチケットも買って、客席から見てた」

心臓が、重い音で鳴った。

「どうして……」

「お前が知ってる答えを、俺の口から言わせてほしかった」

低い声が耳元で落ちた瞬間、視界が揺れた。春彦の手が翠の腕を包み、振り向かせる。正面から見た彼の目は。真剣だった。迷いも、演技も、一切ない。

「俺、ずっと好きだった。ガキの頃から、今も。変わってない」

胸の中で、五年分の沈黙がドォン、と崩れ落ちた気がした。翠の目の奥が熱くなる。

「……春彦、それは」

「答えなくていい。一つだけ教えてくれ。嫌か?」

翠は唇を噛んだ。嫌なはずがない。ずっと、ずっと、好きだったのに。小さく、首を横に振った。

「……いやなんて、思うわけない」

春彦の肩から力が抜けた。大きな手が翠の頬に触れ、親指が涙の手前でそっと止まる。

「良かった」

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静寂を裂く、五年越しの熱

どちらからともなく唇を寄せ合い、そのまま重ねた。

最初は確かめるような、ごく淡い接触だった。でも翠が目を閉じた瞬間、春彦の口づけが、深くなる。

翠の唇から、かすかな声が漏れた。

甘い熱が口内に広がり、五年分の距離が溶けていくような感覚だった。春彦の手が翠の後頭部に回り、髪をほどくように指が差し込まれる。もう片方の手がドレスの背中のファスナーにかかり、ゆっくりと引き下ろした。黒い布が音もなく床に落ちた。

「震えてないか?」

囁きが耳元をくすぐる。翠は首を横に振った。寒いわけじゃない。ただ、ここから動きたくなかった。

下着一枚になった翠の肩を、春彦の指先がじわりと辿る。鎖骨の曲線をなぞり、首筋へ。その軌跡が、体温を少しずつ上げていく。

「翠」

名前を呼ばれるだけで、胸の奥がきゅうっと締まった。

春彦が翠の首筋に唇を落とした。柔らかく、でも確実に、小さな花を植えるみたいに、鎖骨の上に口づけが続く。翠は彼の背中に腕を回し、指先にきゅっと力を込めた。

「は……春彦……」

「ここも」と低く言いながら、胸元に温かい手が触れた。下着の上から柔らかく包むように、指先が頂を撫でた瞬間、翠は小さく身を震わせた。それは寒さではなく、もっと芯の深いところから来る、甘い震えだった。

翠はとっさに声を抑えようとして、抑えきれなかった。

「っ……んぁ」

「翠」

もう一度、名前だけを呼ばれた。それなのに、耳から体の芯まで溶けていくような気がした。翠は春彦の胸に額を押し付け、どくどくと脈打つ自分の体が恥ずかしかった。

やがて春彦の指先が肩紐をそっと引いていくと、下着が床に落ちた。冷えた空気に触れた素肌に、彼の両手がすぐ添えられる。

胸の頂に触れた温もりに、翠は息を詰めた。

「全部、好きだ」

その言葉が、翠の奥まで届いた気がした。

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奥深くへ、君だけに解ける場所

気がついたら、翠は畳の上に横たわっていた。

いつの間にそうなったのか、よく覚えていない。春彦が静かに背を支えてくれた気もするし、自分からもたれかかった気もする。ただ、微かな明かりの中で彼の目が深く真剣で、翠はここで初めて、自分が全部を委ねられると思った。

「……怖い?」

「ちょっと」

正直に言うと、春彦が小さく笑った。

「無理しなくていい」

「……無理してない。怖いけど、春彦だから」

言葉にしたら、本当のことだとわかった。長い指が翠の頬を撫で、あの子どもの頃と変わらない目が見つめてくる、それだけで、緊張がほどけていく。

春彦の唇が耳の下へ、首筋へ、そして胸の頂へと辿り着いた瞬間、翠の体が弓なりに反った。温かな湿りが敏感な場所を包む感覚に、喉の奥から声が漏れる。

「……ふ、あっ」

返事ができない。ただ、指先が彼の髪に埋まり、もっとと訴えるように力が入ってしまう。

やがて、春彦の手が腹部を過ぎてさらに下へ降りてくる。翠は腰をわずかに動かした、逃げるようなそぶりだったが、本当は逃げたいわけじゃなかった。

「触れても、いい?」

頬が燃えるのを感じながら、翠は小さく頷いた。

春彦の指先が、翠の秘めた場所にそっと触れた。そこに集まっている熱が、翠の正直な気持ちを物語っていた。春彦は翠の反応を一つひとつ確かめるように、その丁寧さが、かえって翠の心を揺らした。

(この人は……ずっと、こんなに優しかった)

一本の指がそっと差し入れられた瞬間、翠は春彦の腕を握りしめ、小さく声を漏らした。

「……んっ、春彦……」

「無理してないか?」

「……うん」

指が奥に届くたびに、甘い疼きが波のように広がっていく。五年間、ずっと閉じていた場所が、春彦のためにだけ、解けていくように感じた。

「翠、俺のこと、ちゃんと受け取ってくれるか」

真剣な声だった。翠は目を開けて、彼の目を見た。

「……うん」

一言だけ。でも、それで十分だった。

春彦の熱が、ゆっくりと中に入ってきた。

「……あっ」

広げられる感覚に、翠は息を止めた。春彦の腕が翠の腰に回り、支えるように抱きしめながら、ほんの少しずつ、深いところへと進んでいく。

「痛い?」

「……ちょっと」

「止める?」

「……止めないで」

春彦が動くたびに、甘い痛みと熱い充足感が交互に押し寄せた。それが次第にひとつの波になり、翠の体は彼の動きに合わせて揺れ始める。

「春彦……っ、春彦……」

名前を呼ぶたびに、彼が少し強く抱きしめてくる。その腕の力が愛おしくて、翠は彼の首に腕を回した。

波が高くなる。それと一緒に、胸の奥にある何かも、もう限界になっていた。

「……五年ぶんが、全部」

そう言いかけた声が、途中でかすれた。でも春彦には伝わったはずだ。

「俺も」

短く、でも迷いなく。

頭の芯が甘く痺れていくような感覚が、深いところから広がった。翠は春彦の体にぎゅっとしがみつき、震える息を彼の首筋に逃した。

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漆黒の闇に灯る、五年目の答え

荒い呼吸が静まっていく中、二人は畳の上に寄り添って横たわっていた。

楽屋の窓の外は深い夜のまま、細い光が木枠の隙間から滲むだけだった。翠は春彦の横顔を、指先でなぞった。

「……あの頃と変わってない」

「お前こそ」

翠は小さく笑った。「嘘。背も伸びたし、顔も変わった」

「そんなに?」

「……かっこよくなった、ってこと」

春彦が静かに笑い、翠の額に唇を落とした。しばらく、二人は黙ったままでいた。楽屋に満ちているのは、互いの呼吸と、どこか遠い夜の静寂だけ。

「五年……何やってたんだろうな、俺たち」

翠は春彦の胸に耳を当て、目を閉じた。彼の心臓の音が、自分のそれと同じ速さで打っている。

「……わかんない」

ずっとこうして、この鼓動の隣にいたかった、今になってやっと、正直に思える。

少し間があってから、春彦が静かに言った。

「……行かないでって、言えば良かった」

翠は春彦の胸から少し顔を上げた。

「……私も。行けば行くほど、戻りたかった」

春彦の腕が、翠の背をゆっくりと引き寄せた。それだけで、胸の奥がきつく締まった。

「……今から言っても、遅い?」

春彦は首を横に振った。「遅くない」

翠はもう一度、目を閉じた。あの日、春彦が言えなかった言葉を、今度は翠が、ゆっくりと息に乗せた。

「……行かないで」

春彦の腕が、ぎゅっと翠の肩を引き寄せた。

「もう、離れたりしない」

低く、でも迷いなく。

翠はそのまま、春彦の胸に顔を押し当てた。

楽屋の外で深夜の風が吹いても、春彦の腕の温もりが、翠の胸に残っていた五年間の冷たさを、ゆっくりと溶かしていくのがわかった。

この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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作者より月森 潤

月森 潤

能舞台の楽屋という、静謐ながらもどこか閉塞感のある空間を舞台に選びました。古い木造建築の湿った匂いや、扉が閉まる際の硬い音など、視覚以外の感覚を強調することで、再会した二人の間に流れる張り詰めた緊張感を演出したかったと思いました。特に、黒いドレスと紋付袴という色を排した装いから、次第に白い肌が露わになっていく色彩の対比にこだわりました。 五年という空白の時間を埋めるのは、言葉よりも先に触れ合う体温であると考え、もどかしい距離感がゆっくりと縮まっていく過程を丁寧に描きました。「嫌か?」という問いかけに、翠が静かに首を振る場面には、幼なじみだからこそ共有できる深い信頼と、それ以上に強い執着を込めたつもりでした。静寂に包まれた空間で、互いの鼓動だけが響き合うような濃密な時間を表現できたと感じました。 最後まで読んでいただきありがとうございました。

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