雨音に濡れる初めての夜

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雨音に溶ける、彼の掌の中の白昼夢

雨が降り始めたのは、私たちが山道を登り切った直後だった。

「タイミングよかったね」と颯太が言った。その言葉通り、駐車場に停めたキャンピングカーの中に滑り込んだ瞬間、屋根を叩く雨音が一気に強くなった。

『有坂颯太。』

幼なじみ、という言葉が持つすべてのイメージを体現している人だ。隣の家に住んでいた彼とは、補助輪を初めて外して転んだ日も、ようやく自転車に乗れるようになった日も、ずっと一緒だった。小学校でも中学校でも高校でも、クラスが離れると妙に落ち着かなくて、廊下で見かけると安堵した。

中学二年の秋、颯太が半笑いで言ったことがある。

「花音って、おれのこと好きじゃないよな」

半分冗談みたいな口調だったから、私は笑って「なんで急に」と返してしまった。あの時。もしかしたら。その可能性を、あの瞬間に摘み取ってしまったのかもしれない、とずっと思っていた。

大学は別々だった。颯太は地方の医学部へ、私は東京の大学へ。最初の一年はよく連絡を取り合っていたけれど、新しい環境に馴染むにつれ、メッセージのやりとりは月に一度になり、半年に一度になり、いつのまにか、既読のつかない挨拶文を送るだけの関係になっていた。

五年間。

「会いたい」と送られてきたメッセージを見た時、私はどんな顔をしていたんだろう。

颯太は今、地元に戻って病院で働いている。土曜日の朝に「ドライブしない?」と誘われ、気づいたら二時間以上走っていた。目的地も告げないままなのに、不思議と怖くなかった。颯太の車だから、どこへ行くにしても大丈夫だと思えた。

窓ガラスを伝う水滴が世界を歪めて映し出す。天井には波打つような薄明かりが広がり、閉じ込められた温もりと外の雨の匂いが混ざり合っている。私は狭いシートの隅に座り、膝の上で組んだ両手をぎゅっと握りしめた。

隣には颯太がいる。

颯太は「大切な話がある」と言ったきり、ずっと黙っていた。

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言えなかった言葉が、雨音にほどける

「颯太」

先に口を開いたのは私だった。

「なんでも言っていいよ。昔からそうじゃん」

颯太は前を向いたまま、小さく息をついた。

「……昔から、だから難しいんだよ」

長い沈黙の後、颯太が私を見た。医学部と長い研修期間を経て帰ってきたその顔は、昔より少し鋭くなっていた。でも目の奥の光は変わっていない、私が知っている、あの颯太の目だ。

「花音のこと、好きだった」

雨音が、止まった気がした。

「中学の頃から。いや、もっと前から。でも言えなかった。花音と友達でいられなくなったら怖かったから」

過去形だ、と思った。それが胸に刺さった。

「……今は?」

自分でも驚くほど素直な言葉が出た。颯太が目を見開く。

「今も、だ」

息が詰まった。

「五年離れてても、変わらなかった。他の誰かと付き合おうとしたことも、あったけど。うまくいかなかった。花音じゃないから、ってわかってたから」

テーブルに置かれた颯太の手が、かすかに震えていた。いつも落ち着いていて、患者の前でも動じないだろうその手が。

「おれ、遅すぎた?」

「遅くない」

今度は迷わなかった。

「中学の時に颯太が言ったこと、今でも忘れられない。『花音って、おれのこと好きじゃないよな』って。あの時。笑って誤魔化してしまったこと、ずっと後悔してた」

颯太の表情が動いた。

「東京にいる間も、誰かと話すたびに颯太だったら何て言うかなって思って。悩みがある時も、颯太に話したいって思って」

声が少し震えた。でも止めなかった。

「私も、ずっと好きだったから」

雨が屋根を叩く音だけが、しばらく続いた。

颯太が身体を向けた。その動きに引き寄せられるように、私も彼を見た。

「花音」

「うん」

「触れていい?」

問いかけが優しくて、胸が痛かった。

頷くと、温かい指先が頬に触れた。そっと、確かめるように。五年分の隔たりを一つずつ埋めていくような、静かな接触だった。

「昔から、こういう顔してた」

「どんな顔?」

「どっかに行きそうな顔」

颯太が小さく笑った。昔から好きな、目元が柔らかく細まる笑い方。

「もうどこにも行かせない」

重なった唇は、予想よりずっと優しかった。幼い頃から慣れ親しんだ彼の匂い、石鹸の香り、が鼻をくすぐる。その温もりが、胸の奥まで染み込んでくる。触れるだけだったキスが、少しずつ深くなっていった。

「んっ……」

唇の隙間から漏れた声に、自分でも驚いた。颯太の手が私の頬を包み、もう片方の手が髪をさらっていく。焦らずに、丁寧に。長い年月分の想いが、ひとつひとつ刻まれていくように。

首筋に唇が移った瞬間、背筋に甘い電流が走った。

「ん……っ、颯太……」

彼は答えない代わりに、そこに少し長く留まった。私の呼吸が変わるのに合わせて、触れる力が変わる。まるで十数年かけて積み重ねてきた記憶を、別の言語で読み解くように。

「花音のこと、全部知りたい」

耳元の囁きに、私は小さく震えた。

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雨音だけが、知っている

キャンピングカーの奥、狭い寝台スペースに、二人で移動した。

「怖い?」

颯太が静かに聞いた。

首を振る。怖くはなかった。ただ、胸が詰まるほど愛しくて、それが少し苦しかった。

「嬉しくて、どうしたらいいかわからない」

正直に言うと、颯太は目元を柔らかく細めた。

「おれも一緒だよ」

彼の手が私の背に回り、優しく抱き寄せられた。直接伝わってくる体温。颯太の心臓の音が、規則正しく、でも少し速く、耳に届いた。

「大丈夫。ゆっくりでいい」

その言葉に導かれるように、肩の力が抜けていった。

衣服が一枚ずつ重なりを解くにつれ、触れ合う肌の面積が広がっていく。颯太の手のひらは温かく、迷わなかった。でもその動きは、私の反応を読みながら静かに進んだ。

「ここは?」

「……うん」

「これは?」

「……っ、颯太……」

名前を呼ぶたびに、彼が少し微笑む気配があった。

胸元に触れる指先の感触に、息が止まった。直接の温もりが柔らかい膨らみに触れ、しなやかに形を変える。甘い疼きがじわりと広がり、下腹部まで熱くなっていった。

颯太が低く、私の名前を呼んだ。

「花音」

その声だけで、残っていた羞恥が溶けた。

颯太の声だ。

幼い頃からずっと聞いてきた、変わらないその声が、今は違う温度を帯びて、私の名前を包んでいる。その事実だけで、体の芯から力が抜けていった。

唇が首筋から鎖骨へ、胸元へと移るたびに、甘い痺れが波紋のように広がった。颯太は急かさなかった。ひとつひとつの感触を丁寧に辿り、私が息を詰めるたびにそこへ戻ってくる。

「んっ……あ……颯太……」

敏感な場所を見つけるたびに、颯太が少し長く留まった。私の呼吸を読みながら加減を変える、その巧みさが、甘くて少し狡いと思った。

熱い疼きが体の中心に集まってきた頃、颯太が私の顔を覗き込んだ。

「花音」

「……うん」

「ちゃんと、見ていていい?」

答える代わりに、目を閉じずに彼を見つめた。

繋がった瞬間、小さな息が漏れた。体の奥まで満たされていく温もり、じっくりと広がる充足感に、私の指先が颯太の背に縋った。颯太も同じように眉根を寄せて、息を整えている。

「ここに、いるから」

動き出す前に、そう言ってくれた。

それだけで、何かが溢れそうになった。

ゆったりとした動きの中で、積み重なってきた年月が一つに溶けていく気がした。幼い日の記憶、離れていた五年、再会した日の緊張、今夜の雨音、すべてが今この温もりの中に収まっていく。

「……っ、颯太……颯太……」

名前を呼ぶ声が、自然と雨音に混ざっていった。颯太が髪をさらいながら耳元に唇を寄せ、「離さない」と囁いた。その二文字が、世界を完結させた。

押し寄せる波が高くなるにつれ、呼吸が乱れ、視界が滲んだ。颯太の腕が私の背をしっかりと支え、最後まで寄り添っていた。

絶頂の瞬間、私の唇から零れたのは颯太の名前だけだった。

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静寂が戻り、車内は再び雨音に包まれた。

颯太は私を腕の中に引き寄せ、顎を私の頭にそっと乗せた。汗ばんだ肌が触れ合い、二つの鼓動がゆっくりと落ち着いていく。

しばらく、何も言わなくてよかった。

「花音」

颯太の声が、穏やかに降ってくる。

「中学のあの日、ちゃんと言えてたら、ってずっと思ってた」

「……私も」

少し間を置いて、颯太が続けた。

「でも後悔はしてない。あの頃のおれじゃ、今みたいに傍にいられなかったから」

窓の外を見ると、雨は少しずつ弱まっていた。雲の切れ間から、夕暮れ時の柔らかな光が差し込んでくる。

「じゃあ私も、後悔しない」

颯太の胸に頬を押し当てながら言った。

「どこにも行かないから」

長い年月をかけて育まれてきたものが、今夜ここで形を得た。幼なじみという言葉では収まりきらない、もっと深くて、もっと確かな何かに。

今夜の雨音を、きっとずっと忘れない。

この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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作者より月森 潤

月森 潤

幼なじみという存在には、恋愛小説において特別な魔法があると思います。「ずっとそこにいた」という安心感と、「もしかして」という淡い期待が混ざり合い、長い年月分だけ深く根を張っている。 この物語では、五年間の空白を経て再会した二人が、雨の夜に積み重なった言葉と気持ちを確かめ合う様子を描きました。颯太が低く花音の名前を呼ぶ場面、幼い頃から変わらないその声が、今夜だけ違う温度を帯びて響く、そこに、幼なじみ同士の恋愛の核心があると感じています。 長い時間をかけて育まれてきたものは、その分だけ揺るがない。雨音の中で始まった二人の「次の章」が、温かくありますように。

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