
「夜明けまでいてくれ」と告げたライバルの宿
ライバルという名の、長い前置き
春先のゼミに、彼が配属されてきた時から嫌な予感はしていた。
修士一年、配属初日。出席者は六人、その場でいちばん鋭い目をしていたのが、藤堂透だった。「藤堂です」と端的に自己紹介した声は落ち着いていて、一言一句に無駄がなかった。彼女の最初の印象は、たったひとつ、こいつとは張り合いたくない、と。
当然のように、その予感は的中した。
最初のプレゼンで、彼は彼女の論旨の穴を三ヶ所指摘した。丁寧に、でも容赦なく。教授の前で二の句が継げなくなった彼女に、帰り際に彼が追いかけてきた。「おい、聞けよ。埋め合わせをする」。その一言から始まった"埋め合わせ"は、不思議と毎週続いていった。
最初は学食だった。アイスコーヒーを二つ買ってきた彼と、データの見せ方について一時間以上議論した。勝ったり負けたりしながら、じわじわと彼の思考の速さが面白くなっていた。
次の週は図書館の閉架書庫。その次は、キャンパスを見渡せる屋上。雨の日は駅前のカフェで、閉店になっても「あと一杯だけ」と粘った。
いつからだろう、と彼女は思う、彼の批評を聞きながら、「この人の言うことが聞きたい」に変わったのは。
ゼミの日、気づけば彼の姿を廊下で探していた。目が合うと、なぜか少し早足になってしまう。認めたくなかった。認めてしまうと、この七ヶ月間のライバル関係が全部、違う色に塗り替えられてしまう気がして。
今週のゼミは、特にひどかった。テキストの解釈をめぐって、彼に正面からロジックを切り崩された。言葉を探しているうちに、教授から「次の発表者、どうぞ」と促されてしまった。
帰り道、ずっと悔しくて歯を食いしばっていた彼女の隣に、自然な足取りで彼が並んだ。
「今週末、温泉にしよう」
いつものように、端的な一言。彼女は少し間を置いてから「……わかった」と答えた。心のどこかで、少しほっとしていたことは、死んでも悟られたくなかった。
宿に着いたのは昼過ぎだった。渓流沿いの一軒宿で、貸切の露天風呂が別棟にある。二人きりで来るのは、これが初めてだった、これまでの"埋め合わせ"は、いつも人の多い場所だったから。
「今日は逃げ場がないな」
脱衣所で、彼がふっと笑った。彼女はただ視線を逸らした。胸が騒いでいたのは、温泉のせいだけじゃないとわかっていた。
露天に浸かりながら、星を見た。しばらく黙っていた。こういう沈黙が、二人の間では珍しくなくなっていた、最初の頃は、言葉が途切れると不安だったのに。今は、彼の息遣いを聞いているだけで落ち着く。それが少し怖かった。
お湯から上がって、バスタオルを体に巻いたまま休憩室に入った時、彼女は帰り支度を始めようとしていた。
「夜明けまで、いてくれ」
振り返ると、ソファに腰掛けた彼の目が、真っ直ぐこちらを向いていた。
あの目は、ゼミの時の顔じゃなかった。

夜明け前に、ほどけていく
胸が鳴るのを感じながら、彼女は部屋に引き返した。足元の床板がかすかに軋み、庭から足湯の水音だけが聞こえていた。
彼がソファからゆっくりと立ち上がり、近づいてくる。肩にそっと触れた手は温かく、それだけで息が乱れそうになった。
「……ずるい。そういうの」
「何が」
「そんな目、今まで一度も見せなかったくせに」
彼は答えず、静かに彼女の額に唇を落とした。あ、と思った瞬間、身体から力が抜けていった。
キスは初めてだった。でも、ひどく自然だった。長い時間をかけてここへたどり着いたような気がして、それがかえって、泣きたいような気持ちを呼んだ。
「ずっと、そうしたかった」
低い声で言われて、彼女は目を逸らした。「私も」とは、どうしても声に出せなかった。でも彼はわかっているようで、それ以上は求めなかった。
ソファに横になると、彼の手がバスタオルの上からゆっくりと動き始めた。肩をなぞり、鎖骨を伝い、胸元へと滑り降りる。バスタオルの前を静かに押し開けられた瞬間、冷えた空気が素肌に触れた。
「んっ……」
思いがけない声が漏れた。羞恥に頬が熱くなる。この七ヶ月、鋭い言葉をぶつけ合ってきた相手にこんな声を聞かせているかと思うと、恥ずかしいというより、不思議な高揚が混じり合っていた。
彼の指先が乳首をかすかに転がした。小さな刺激が背筋を抜けて、下腹に熱が滲んだ。
「こんな顔、してたのか」
「……見ないで」
「嫌だ」
呆れるくらい率直な返事に、笑い出しそうになった。ゼミの時と同じだ、と思った。彼はいつも、遠回しにしない。
唇が重なるたびに、少しずつ深くなっていった。彼の舌が絡んできた時、彼女は気づかないうちに彼の背中に手を回していた。引き寄せるように、温かい肌に指を食い込ませた。こんな風に、誰かを手放したくないと思うのは久しぶりだった。
彼の手が腰を滑り下り、バスタオルの裾をめくった。指先がそっと秘部に触れた瞬間、「ッ」と息が詰まった。そこはもう、熱を帯びていた。
「……待って、恥ずかし……」
「待たない」
また、率直だった。
彼の指が丁寧に入り口をなぞりながら、じわじわと奥を開いていく。一本、二本と沈み込んでくるたびに、膝が内側に閉じようとした。でも彼の腕がそれを制した。
「怖がるな、まかせろ」
低い声が耳の内側に落ちてくる。その声だけで、強張りがじんわりと溶けていくのが不思議だった。
彼の指が奥を探るように動くたびに、湿った音が漏れた。聞こえているとわかっているのに、身体が止まってくれない。彼の動きを覚えていくように、深くなるほど甘さが増していく。目の奥が潤んでいくのは、気持ちよくて、嬉しくて、泣きたいくらいのものが混ざり合っているからだと気づいた時には、もう声を抑えることもできなかった。
「……透、」
名前を呼ぶのは初めてだった。彼の手が一瞬止まった。
「……何?」
「もっと、側に来て」
彼は静かに頷いて、彼女の上に身体を移した。全体重が伝わってくる。その重さが、怖くなかった。
熱く硬いものが入り口を押し当てた時、彼女は思わず息を止めた。ゆっくりと、じりじりと奥まで押し広げられていく。「んあっ……」と漏れた声は、自分のものとは思えなかった。
「……無理してないか」
「うん……大丈夫」
息が乱れていたけれど、本当に大丈夫だった。彼の重さが、温もりが、ここに確かにあると教えてくれる。彼がゆっくりと動き始めると、最初は知らない感覚に戸惑った。けれどすぐに、深くなるたびに甘さが広がっていった。
薄暗がりの休憩室に、二人分の息遣いだけが満ちていく。庭の足湯から聞こえていた水音が、遠くなっていった。
「……もっと、」
こんな言葉が自分の口から出るなんて、想像もしていなかった。でも彼は、それを待っていたかのように深く沈み込んだ。胸が揺れ、視界が霞んでいく。理性の端がほどけていくのを感じながら、彼女はただ彼の名前を繰り返した。
「透……っ、透……!」
彼の腕が背中に回り、きつく抱き寄せられた。そのまま、深い波が来た。全身に甘い痺れが広がって、指先まで力が抜けていく。彼の体温が、その震えの中でもずっと傍にあった。

夜明けの光の中で
しばらくの間、二人は動かなかった。
乱れた息がゆっくりと整っていくにつれて、静寂が戻ってきた。天井の木目を、彼女はぼんやりと見上げていた。汗ばんだ肌に彼の温もりが馴染んで、腕の中から動く気が起きなかった。
窓の外が、少しずつ白んでいた。
『夜明けまで、いてくれ。』
最初に言われた言葉を、今になって思い出した。あの時は躊躇いながら引き返したのに、今はもう、ここを離れることが想像できなかった。
「……ずっと、気づいてた?」
彼の胸に頬を押しつけたまま、彼女は訊いた。
「わりと最初から」
「……最低」
「お前が意地張るから」
短く返した彼の声に、責める色はなかった。彼女は黙って、彼の胸にそっと指を這わせた。
春のゼミ室で初めて目が合った時、こいつとは張り合いたくない、と思った。その予感の正体が、こういうことだったとは。
「今週のゼミ、わざと厳しくしたの?」
彼は一瞬、言葉を選ぶように黙った。
「……少しな」
「最悪だ」
「でも、来たじゃないか」
そう言った彼の声が、ほんの少しだけ掠れていた。ゼミでは絶対に見せない顔だった。それを自分だけが知っている、そのことが、胸の奥でじんわりと温かかった。
笑いが込み上げてくるのを感じながら、彼女は彼の肩に額を押しつけた。七ヶ月間、好きだと認めるのを先送りにしてきた。でもその時間が全部、今夜ここへ続いていたのだと思うと、悔しいような、よかったような、泣きたいような気持ちが混ざり合った。
庭の足湯に朝の光が差し込んで、室内に薄い金色の線を引いていた。
「……もう少し、いていい?」
「ああ」
二人分の沈黙が、また静かに満ちていった。でも今度の沈黙は、怖くなかった。

この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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作者より月森 潤

大学院のゼミという、知的なプライドがぶつかり合う特別な空間。そこでトップを争う二人が、七ヶ月かけてゆっくりと距離を縮めていく……というじれじれ感を丁寧に描きたかったと思います。 “埋め合わせ”というちょっと不器用な名目で続いてきた二人の時間が、温泉という非日常の場所でついに臨界点を超える瞬間、普段は論理的に相手を追い詰める彼が、夜の静寂の中でだけ見せる率直な言葉や独占欲に、私自身も書きながらドキドキしてしまいました。「待たない」なんて、ゼミの彼と同じ人間とは思えない(笑)。 特にこだわったのは、露天風呂上がりの火照った肌に休憩室のひんやりした空気が触れる温度差と、そこに重なる二人の緊張感です。知的な駆け引きの延長線上に、こんな夜があるなんて。意地っ張りな彼女が、彼の腕の中でだけ素直になる瞬間を、最後まで丁寧に書けたなら嬉しいです。 読んでいただきありがとうございました。
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