貸切風呂でライバルが婿候補になった夜

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積み重なった、火花の記憶

温泉旅館の廊下に立ち、こはるはゆっくりと深呼吸をした。

三年間、あの人に何度も奪われてきた。大手メーカーとの提携交渉で先手を打たれ、国際展示会のプレゼンで出し抜かれ、そのたびに悔しさで眠れない夜を繰り返した。高梨陸、父が経営する高梨グループの次期社長であり、自社が競合し続けてきた唯一の相手。ビジネスの場で「こはる、おまえはいつも惜しいな」と言い放ったあの低い声が、今でも耳に残っている。

それが、婿候補として現れることになるとは。

昨日、初めて顔を合わせた両家の顔合わせの席で、父はにこやかに言った。「高梨くんは優秀な人だ。家の未来を任せられる」と。隣で陸はどんな顔をしていたのだろう。こはるはテーブルの端を見つめたまま、気づけば何度も彼の横顔を盗み見ていた。

宴席が終わり、自室へと戻る廊下で、彼にふいに声をかけられた。

「顔合わせの席でそんな顔するな。両親が心配する」

低く、でも囁くように近い声だった。振り返ると、浴衣に着替えた彼が壁に寄りかかってこちらを見ていた。普段の鋭利なスーツ姿とは異なる、柔らかな輪郭。胸元が少し開いていて、目のやり場に困った。

「……余計なお世話です」

「俺も同じ気持ちだ。でも、家のためだ」

その言葉が、夜通し頭を離れなかった。

彼も、望んでいないのかもしれない。それでも従おうとしている、こはると同じように。

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湯気の中に、閉じ込められた二人

翌朝、親族が揃う朝食の前にひとり貸切風呂を使いに来たこはるは、脱衣所の扉を開けて固まった。

先客がいた。

「……あなたも?」

声が裏返った。陸は湯上がりらしく、白いタオルを首にかけたまま、鏡の前で浴衣の紐を結びかけていた。蒸気で白く曇った鏡に映る彼の背中は、想像していたよりずっと広く、引き締まっていた。

「先に入るつもりだったんだが、鍵を確認し忘れた」

振り向いた彼の視線が、ひと呼吸、こはるの上で止まった。寝起きのままの薄化粧と、少し乱れた浴衣の衿。恥ずかしくなって衿を合わせようとしたとき、彼が一歩こちらへ近づいてきた。

「出ていくか?」

「……いえ」

自分でも驚いた。なぜそう言ったのか。でも足は動かなかった。湯気の中に閉じ込められたこの空間で、三年分の競争相手と二人きりでいる事実が、なぜか怖くなかった。

「……昨日の廊下で言っていた『家のため』、本当にそれだけですか」

問いかけるより先に、言葉が出ていた。彼は少しだけ目を細め、こはるの問いをまっすぐに受け止めた。

「おまえはどうだ」

それは、はぐらかしにしか聞こえなかった。でも、瞳の奥に揺れているものを見た気がした。

「わかりません……今は」

束の間、静寂だけが二人を包んだ。湯の音だけが響く。やがて、彼がこはるの手首をそっと掴んだ。引き寄せられるように体が動き、気づいたときには、彼の胸に額を当てていた。浴衣越しに感じる彼の温もりは、ビジネスの場では決して想像しなかったものだった。

「こはる……」

名前を呼ばれた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。

密室の熱気と、重なる体温

気づいたときには、浴室の引き戸が開いていた。

湯気が白く満ちた浴室へ、陸に手を引かれながら踏み込む。温かいタイルが素足の裏に貼りついて、現実なのだと思い知らされる。シャワーが静かに湯を落とし始め、その音が外の世界をどこか遠ざけていった。

「やめたいなら言え」

「……やめたくない」

かすれた声だったが、それが本音だった。陸はゆっくりとこはるの浴衣の衿に指を差し込み、帯を解いた。両肩からするりと落ちる生地の感触に、全身の皮膚がざわりと目を覚ます。さらけ出された肌を、彼の視線が静かに辿る。

「ずいぶん長い間、敵だったな」

「……ええ」

「なのに」

その先の言葉は、ついに続かなかった。代わりに、彼の唇が首筋に落ちた。

「あっ……」

声が漏れた瞬間、耳が熱くなった。口で触れているだけなのに、その場所から電流が走るように全身に伝わっていく。彼は焦らすように、鎖骨を、肩を、耳の後ろを、丁寧に唇でなぞっていく。シャワーの湯が肌を濡らし、敏感になった皮膚に彼の手のひらが滑る感触がたまらなくなってくる。

「ん……陸さん……」

「名前だけ呼べ」

低く命じる声に、膝が揺れそうになった。彼の片手がこはるの腰を引き寄せ、もう片方の手が腿の内側をゆっくりと撫でる。指先が秘められた場所へと近づくたびに、呼吸が浅くなっていく。

「や……っ、そこは……」

「嫌か?」

嫌ではなかった。むしろ、もっと、と思っている。それが恥ずかしくて、こはるは彼の胸に顔を埋めた。すると彼はその場所を、親指の腹でゆっくりと、焦らすように押し始めた。

「んっ……んっ……」

腰が揺れる。抑えようとしても、声が漏れる。シャワーの湯の音に溶かしながら、こはるは彼の腕にしがみついた。熱が溜まっていくのがわかる。指が少し動くたびに、花びらが蜜をにじませ、くちゅりと恥ずかしい水音を立てる。

「こんなに……」

陸が耳元で低く呟く。その言葉だけで、また体が揺れた。

「や……言わないで……っ」

「かわいいな、こはる」

三年間、「惜しい」と言い続けた男が、今は「かわいい」と言っている。それだけで、涙が出そうになった。

やがて陸がこはるをタイルの壁に寄りかからせ、脚の間に膝を割り込ませる。熱く硬いものが入り口に触れた瞬間、こはるは彼の背中に腕を回した。

「力を抜け」

囁く声に、息を吐く。少しずつ、奥へと満たされていく。圧迫感が広がり、彼の形を感じるたびに甘い痺れが腰の奥から湧き上がった。

「あ……ぁっ……」

「ここか……」

彼が深いところで角度を変える。衝撃が全身に走り、こはるは彼の肩を強く掴んだ。ゆっくりと、確かめるように動き始める彼のリズムに、体が合わせていく。壁に背を預けたまま、腰が揺れるたびに全身の感覚が一点へと集まっていく。

「陸……っ、もっと……」

「ん……」

まさか自分からねだる日が来るとは思わなかった。でも体が正直だった。陸は唇をこはるの額に押し当て、リズムを深くしていく。蜜壁が彼を締めつけるように収縮し、そのたびに二人の声が混じり合う。

シャワーの音。湯気の中に漂う熱。彼の息遣いと、自分の名前を呼ぶ声。全部が頭の中に溶け込んでいく。

波が一気に押し寄せた。

「……っ! 陸……陸……っ」

つま先まで震え、こはるは彼にしがみついた。陸もまた、名前を呼んで、深く繋がったまま動きを止めた。静寂が落ちる。残るのは、互いの荒い呼吸と、体の中に刻まれた温もりだけだった。

しばらく、二人は離れられなかった。

陸の手が濡れた髪をゆっくりと撫でる。その仕草が、ビジネスの場での彼からは想像もできないほど優しくて、こはるは胸が締めつけられた。

「……ライバルだったのに」

「だからなんだ」

「……わかりません」

「それでいい」

低く、でも温かい声だった。こはるはもう一度だけ、彼の胸に顔を寄せた。

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霧の向こうの、次の約束

シャワーを止めると、タイルの上に静寂が降りた。

陸はこはるの体をタオルで丁寧に拭い始めた。されるがままでいることが、これほど自然に感じられるとは思わなかった。三年間、何があっても「負けない」と思ってきた相手に、今は身を委ねている。悔しいような、それでもどこかほっとするような。不思議な気持ちだった。

「……あなたは昔から、いつも一歩先にいましたね」

ふと、そんな言葉が口をついた。

「おまえは毎回、あと少しだった」

「だから『惜しい』と言い続けたんですか」

タオルの動きが、一瞬だけ止まった。

「それだけじゃない」

低い声だった。陸はこはるの顎をそっと持ち上げ、間近で視線を交わした。その目の奥に、今まで見たことのない種類の熱があった。

「負けたくなかった。でも、目が離せなかった。……おまえが、ずっと気になっていた」

胸に何かが刺さった。昨夜の廊下で「家のためだ」と言っていた声と、今の声が、頭の中でゆっくりと重なっていく。

「……今日の顔合わせが終わったら」

陸がタオルを畳みながら、静かに続けた。

「俺と話してくれ。家の都合じゃなく、俺たちのことを」

こはるは少しの間、その言葉を胸の中で転がした。

「仕事では、まだ負けませんよ」

「そうじゃなかったら面白くない」

珍しく、陸が口の端を持ち上げた。三年分の火花の向こうに、ずっとこんな顔が隠れていたのかと思うと、胸の奥がきゅっと痛んだ。

それが、湯けむりの中でひっそりと交わした、二人だけの密約だった。

曇ったままの鏡に、寄り添う二人の影が映っていた。かつてあれほど遠かった距離が、今はもう、どこにもなかった。

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この物語は完全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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作者より月森 潤

月森 潤

温泉旅館という、日常から切り離された密室空間にこだわって書きました。「ライバルから恋人へ」という関係は、積み重ねてきた時間。奪われた案件、悔しい夜、それでも認めていた相手の実力、があってこそ、あの脱衣所での沈黙が意味を持つと思っています。 陸の「惜しいな」というセリフは、こはるへの評価であると同時に、感情を持て余していた男の言葉でもある。だからこそ「かわいい」に変わる瞬間が効いて、最後の「目が離せなかった」で伏線として回収されると考えました。タイトルの「密約」も、ただの情事ではなく、二人が初めて「家」ではなく「自分たち」として結んだ約束として描けたと思います。 TL小説の核心は、感情と官能が同時に動く瞬間にあると思っているので、濡れ場もこはるの内面と切り離さずに書くことを意識しました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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